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第17話
久しぶりにひとりで過ごす誕生日に一杯だけ外で飲みたくなって、ずっと昔行ったことのあるバーの扉を押した。同じ恋愛嗜好の男が集まる店の看板は前に来た時とは違っていても、雰囲気は変わっていない。カウンターの中に記憶にある顔を見つけ、刹那大きく胸が鳴る。
「……あ、あの時の…本当に辞めたんだ」
カウンターに腰掛けそう言った後、数回寝た客のことなど覚えていないだろうと後悔した。涼しげな顔をした男は正確に俺を見て微笑んだ。まだ九時前と時間は早く、他に客は誰もいない。
「すぐ辞めましたよ、あの日の後、本当にすぐに。でもその前からもずっとここで働いてたんですけど」
「ノンケの新人だって、酒飲めないって言ってたのも、全部嘘だ」
「よく俺が言ったこと覚えてますね。もちろん全部嘘です。知ってたでしょう、そういう世界だって。俺は根っからのゲイですよ」
「君、あの仕事、向いてそうだったのに」
今更ながら、目の前の男を買った時のことを思い出し、いろんなことが可笑しく思えてくる。抱きしめられて涙を流したことも。
「えぇ、向いてましたね。三年くらい荒稼ぎしたからもういいんです。長くやる仕事でもないんで」
「役者とかも向いてるんじゃない?」
笑ってそう言った。
濃いめのジントニックを注文したら、流れるような手慣れた仕草でボトルを手にした。メジャーカップやバースプーンを持つ、器用に動く長い指を見つめる。
「誕生日、おめでとうございます。これは、俺から」
スマートに目の前に置かれたジントニックは、透明度の高い泡を浮かべている。まっすぐ視線を当てられて言われ、相変わらず濁りのない明るい瞳の色に、正直どきりとした。耳にかけた髪がさらりと落ちて流れるのまで意味があるように見えた。
「君もよく覚えてるんだな。ありがとう」
すぐさま軽く受け流せるほどには時は経っていた。
「こういうところに来るくらいには元気になったんですね。よかった」
「急にまた演技しなくていいのに」
裸よりも本音を晒したことを覚えられている気恥ずかしさに、努めて軽く言う。
「演技なんてしませんよ。そんな必要ないし。志生さんが元気で酒を飲んでてよかったなって単純に思っただけです」
名前も誕生日も覚えてるとか若いのに随分と気がきいて、やっぱり客商売に向いている。さりげなく名前を呼ばれ少しくすぐったい気持ちを紛らわせるように思った。
「ここのバー、変な客とか多分あんまりいないし、おすすめですよ。俺もだいたいいつでもいますから、また来てくれると嬉しいです」
柔らかい笑みを見せて丁寧に言う割には『嬉しい』っていう相変わらずのワンパターンな言葉に笑った。
「はい、これ、あげます。志生さん、俺の名前覚えられないでしょ」
名刺を渡される前にボールペンで何か書き添えられた。小さな四角い紙の中にある文字の羅列をじっと見つめる。バーの名前と男の名前、店の電話番号と男の連絡先。客相手の個人的な商売か、それとも誘っているのか考えあぐねていると、不意に一年前の記憶が頭を掠めた。
「弓、築…って、これ本名だったの?」
「志生さん、覚えてなかったんだから、どうでもいいでしょ」
拗ねて恥ずかしそうに目をそらしたりするから、カウンターの中で隙のない雰囲気を醸し出す男のことが急に可愛く思えた。目元と耳が僅かに赤く染まっている。
「志生さんが俺に名前呼ばせたりとか、馬鹿なことしたからです。志生さんだって本当の名前でしょう」
嘘の中の小さな本当は、ちくりと胸を刺す。あの日の嘘はやたら甘くて優しくてむしろ、とろりと絡みつくように記憶にとどまっているのに。本心を隠すことに慣れていそうな男が、どんな気持ちで本名なんて言ったんだろうと考える。
「あれから俺、一度も客とってませんから。どういう意味かは自分で考えてください」
この男ならもっとスマートにこなしそうなところを、なぜかちょっと怒ったみたいに言って、照れたような顔をした。もう一度小さなカードに視線を移して並んだ文字を確かめる。
嘘らしくも現実に、特別な明日は幾らでも次に来る、そう思わせた男の名前を記憶に深く落とした。
カウンターの向こうの顔を見上げると、もうにっこりと微笑んでいた。嘘か、演技か。
一瞬考え、濡れたグラスを手に取る。気持ちよりも体が記憶に疼き、その後溶けた氷がからり崩れるのと同時に、心が揺れた。
fin.
2016.08 Suzu HANAO
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