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店を出て、ふらふらと駅へ向かおうとしたはずなのに。ここがどこか分からない。蒸し暑い空気と、喧騒に吐き気がする。 「――芹生、くん!」 雑踏を掻き分けて、こちらへ向かってくるのは。 「あれ…翔さん………」 「…良かった、間に合って」 息を切らす姿に、少し申し訳なく思う。謝ろうと口を開きかけた瞬間、くしゃりと頭を撫でられた。 「駅、そっちじゃないよ」 何も聞かずに優しく笑う顔が、揺れる。何故か水面を通したように見えて思わず瞬くと。 頬に、雫が滑り落ちた。 「…え、なに―――…っ、」 驚いて手を当てる暇もなく、今度は暗闇の中へ。仄かな柑橘系の香りは、ここが翔さんの腕の中だということを教えてくれた。 「……誰も見てないから、大丈夫」 あやすように背中を撫でられ、何かが決壊したのを感じる。後から後から溢れる涙は、全て目の前の闇に吸い込まれて。 翔さんは裏口での話を否定しなかった。あの女性が言っていたことと、俺の予想は当たっていたのだろう。 ―――…ああ、それなのに。 追って来たのが彼だったら、と。一瞬でも考えてしまった自分が虚しい。 「ルイさんじゃなくてごめんな、仕事忙しそうでさ」 思考を読んだかのようなタイミングで告げられて、体が固まる。やっとの思いで首を振ると、腕の力が僅かに強まった。 分かってる。これは単なる我儘。 子供じみた感情も、涙と一緒に流してしまおう。 しばらくそうして背を震わせる間。 頭上の彼が…どんな顔をしていたかは、知らない。

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