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145.
音楽室での邂逅から数週間。
咲は転校し、今までと変わらない日常が戻った。
そんな時に教室を訪ねてきたのは、例の彼で。心なしか沈んだ相貌に、胸騒ぎがする。
「お呼び立てしてすみません。どうしても聞きたいことがあって」
屋上のフェンスを背に、口火を切ったのは彼の方。
「……咲に、何をしました?」
明らかに隠そうともしない苛立ちを睥睨に込めて、俺を見つめる。
訪れた静寂。
「…婚約のこと、聞いてますよね。あれ、破談になりました」
「っ、え…」
思わず小さく声をあげた俺をちらりと見やって、座り込んだ彼。
「俺と結婚しない、どころか…一生独身のままでいる、って聞かないらしいです」
脳内で最初の質問を反芻する。
思い出すのはあの日の情景。
夕陽が差し込む少し埃っぽい音楽室。
遠くから聞こえる運動部の声。
肩口が濡れるのに気付かないふりをして、閉じ込めた温もりにそっと目を伏せた。
「……周りから見たら政略結婚。でも、俺は本気で好きだった」
ぽつりと漏らされた言の葉に、胸が締め付けられる。
人の気持ちは簡単に動かせるものではなくて。それでも恋焦がれる姿の何と切ないことか。
「あいつが俺のこと、好きじゃないのは分かってました。でも…近くにいれば、いつか、って…」
握りしめた拳が震えていた。声を発することもできずに、ただただ彼の頭頂部を見つめて数秒。
「…それを、途中から出てきた奴にまんまとかっ攫われて……はは、っ…」
フェンスに背中を預けて、泣きそうな顔で笑みを象るその表情は。
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