239 / 330

239.

「お邪魔します」 もう、そろそろ慣れたと思う頃だったのに。この家に来るのも、玄関を通るのも。 ともすれば涙が零れてしまいそうで、耐えようと深呼吸する。 「ごめんね、急に呼び出して…ちょっと話したいことがあったから」 いつも通り穏やかな声。最後までこの人らしいと思いながら、ココアに口を付けた。 「……最近、避けてる?俺のこと」 予想もしなかった言葉が届いて、ゆっくり顔を上げる。 別れ話は、とか。離れたがっているのはどちらだ、とか。 言いたいことはたくさんあるのに上手く纏まらなくて。 「…三井さんも、お忙しそうでしたよね」 何とも可愛げのない台詞に思わず俯く。ふ、と笑う気配。けれどそれはどこか諦めを含んだもの。 「うん。…ハルの手伝いとか、色々あったし」 ハッとした。そうだ、記憶喪失。普段の生活ひとつ取っても、元のように振る舞うのは大変だろうに。 途端に自分が酷く子供に思えて、ぎゅっと拳を握りしめる。 「楓くん」 呼ばれて視線を上げると。今朝の夢で見たそのままの彼が、ここに居て。途端、不自然に跳ねる鼓動。 「…っ、…や」 すっと伸びてくる手と、夢の手が重なる。違うものだとは分かっていても。 [その手で、女の人を―――…] 反射的に払い除けてしまってから、距離を取った。 冷や汗こそかかなかったものの、未だ息苦しい胸を押さえるようにしてそちらを見つめる。 触れられたくないと、咄嗟に思って。 そんな俺を呆然と眺めた彼は、ややあって立ち上がる。 「……しばらく…離れよう、か」 きっとそのまま別れる気なんだろう。自分で撒いた種に傷付いてどうする。震える足を叱咤して、部屋を出た。

ともだちにシェアしよう!