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「こんにちは」 「お疲れ様~」 ひらりと手を振るハルさんは、どことなく疲れた笑みを浮かべて。 「じゃ、行くか」 多忙な人だから疲れが溜まるのも頷ける。無理しない程度だと良いけれど、と隣の茶髪を見上げた。 「ルイー!」 取り出した鍵で玄関を開けたハルさん。確実にリビングまで届くだろう声量に驚きながら靴を脱ぐ。 「あ…ごめん、すぐ終わるから。ここで待ってて」 反して、ごく小さな声で囁かれる。緊張で口の中はカラカラだ。心を落ち着けるための時間が欲しかった俺は、リビングへ続く扉の前で素直に止まった。 「言われてた物、買ってきた。冷蔵庫入れとく」 「ありがとう。昨日は淕が来てくれたんだけど、うっかり頼むの忘れてて」 扉越しでもはっきり聞こえる会話。和やかなそれとは反比例して、どんどん速度を上げる鼓動。 「…そういやさ、芹生くんと別れた理由。何だっけ?」 「俺は別れたなんて思ってないよ。これが落ち着いたら、ちゃんと会いたい………っていうか理由は前も話したでしょ」 (……え?) ミウちゃんの話はどこへやら。何故だか自分達の話になりそうな予感と、三井さんの言葉に引っかかりを覚える。 (別れたなんて、思ってない…?) 今頃せいせいしている、はずだ。ドアノブに手を伸ばしかけて……やめた。 そのまま背を向けて玄関に進もうかとも思ったが、それでは間を取り持ってここまで連れて来てくれたハルさんに申し訳ない。 踏みとどまるしかなくなった状況で、どうしても聞こえてくる声。 「まあまあ、そう言わずに。俺忘れっぽいからさ~」 「はぁ…だから。信じられなくなったって言われた」 「ふーん…それ、言われる前に何か変わったことは?」 「…ない、と思う。最後に会った時も普通だったし」 「どこで会った?」 「えー…と、朝方ウチの店に来てくれて。着替えるから待ってて、って更衣室に入ったんだけど。出たら急用が出来たってメールで」 「ふうん…お前んとこの更衣室でもやっぱりそういう話すんの?」 「そういう、…?」 思わず息を詰めた。ここから先の話は聞きたくないと訴える本能。 ずるずると壁伝いに座り込んで、やっぱり帰ってしまおうかとぼんやり考えた。

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