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279.
重苦しい梅雨も開け、夏が近付いてきた7月中旬。
カーテンから差し込む光に目を細める。ほとんど以前と変わらないような視界にほっと息をついて、リビングへ向かう。
「…おはよう、ミウ」
額縁に収まる写真を撫でて微笑む。それから簡単に朝食を作って、向かうのは病院。
「うん、もう大丈夫そうだね」
「そうですか……ありがとうございます」
満足そうに頷く医者に頭を下げて、念のためにと視力を測ってもらった。以前は両目とも1.0見えていたそれが、今は0.8に。
「やっぱり少し下がりましたね…でもこれだけ見えていれば、眼鏡等は必要ないと思いますよ」
カルテを捲る看護師と話をして、診察室を出た。
突き抜けるような青空を仰ぐ。元の視力よりは落ちるという説明は受けていたから、さして驚かなかったものの。慣れるのに時間が掛かりそうだと細くため息をついた。
病院を離れてスマホを取り出せば、見計らったかのようなタイミングで着信が。楓くんと表示されたそれを目にして緩む口元。
「…はい」
『あ……細田?ごめん、今日…行けそうにない…』
電話口から聞こえる弱々しい声は間違いなく彼のもの。眉間に寄りそうな皺を指先で伸ばして、抑えた声で問う。
「……楓くん?」
『えっ、な、……っ!』
一気にごそごそと騒がしくなった向こう側。画面を確認したのか、間違いに気づいたようで。
『すっ…す、すみません……あの…』
腹が立って思わず唇を噛み締める。切るよ、と口を開いた瞬間に聞こえたのは微かな咳。
「…ねえ。風邪、引いた?」
『………引いてない、です』
くしゃりと頭を掻いて。夏風邪は長引くと聞いているから、こじらせると厄介だ。それに、きっとこの時期は試験があるはず。
「熱は?」
『…少し、だけ』
「薬は?」
『…まだ、です』
「ご家族は?」
『…今は、誰も』
ああもう、と。漏れる唸りを逃がして腕時計を確認する。オーナーに検査結果を報告するまで、あと数時間。
「食べたいもの、ある?」
『で、でも……』
意味を悟ったのか渋る声。普段よりも濁ったそれは、確実な不調の表れだ。
「今度は俺に看病させて」
意図せず懇願するような響きになってしまった。僅かな沈黙。やがてぽつりと落とされた言葉に、薄く笑って歩き出す。
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