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あれから室内風呂で体を温め直して、部屋へと戻った。 敷かれた布団は二組、当然のように並べられている。恐らくお兄さんが用意したものだろう。他意は無いにせよ、こうもありありと突きつけられれば赤面してしまうというもの。 「楓くん、どっちが良い?」 「…え?あ、……どちら、でも」 そう、と頷いた彼は窓側の布団にいそいそと潜り込んだ。それに倣って布団を被れば、ふわふわの触り心地に思わず頬が緩む。 暗くなった部屋の中、遠くに虫の()が聞こえる。闇に目が慣れてきた頃、ぼんやりと天井の木目を数えていると。 「……ねえ」 こちらを向いたのか、ごそごそと布団を動かす三井さん。顔だけ横に倒せば、差し込む薄い月明かりに逆光で照らされる相貌。 「…名前で、呼んでよ」 ここに居る間だけでも良いから、と。小さく付け加えられたお願い。すっと伸びてきた指が頬を擽る。 「な、まえ、って……」 「みんな同じ苗字だから」 ああ、と思い当たるのは食事中の出来事。普段のように三井さんを呼ぶと全員の視線が自分に集まって。ふわりと笑う隣の彼に頭を撫でられた。 俺の名前を象る声が好きで、いつかはと思っていたものの。いざその機会を用意されれば戸惑ってしまう。 「楓くん」 まるで蜂蜜のようにとろりと溶ける、甘い囁き。同じ色の瞳が(ほど)けて。 名前を、呼べば。もっと。 嬉しそうに緩むだろうか。 顔を元に戻して、再び天井を見上げた。唇を湿してからそっと音にする。けれど、大事に紡いだそれが受け止められる様子はない。 「……晄さん?」 不審に思って顔を向ければ、綺麗な琥珀は隠れてしまっていた。 拍子抜けだと細く息を漏らす。 彼がしてくれたのと同じように頬を撫で、規則正しい寝息をBGMに自らも眠りについた。

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