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頬を撫でた細い指が離れて、隣の楓くんが眠りについたことを悟る。 (………反則、) 暗がりに慣れた目を薄く開け、ふとため息を吐いた。名前で呼ばれることに思ったより免疫が無い。 少し恥ずかしそうに、けれど甘さを含んだ声は正直、毒以外の何物でもなかった。 動揺を隠すため、咄嗟に選んだ狸寝入り。朝になったらこの熱も引くだろうか、と。触れられた頬を抓る。 「…おはようございます」 控えめに体を揺らされるが、却って心地よいそれは眠りから目覚めさせるには不十分で。夢と(うつつ)の間を揺蕩いながら薄目で生返事をする。 「あと5分………」 引き倒した彼はくすりと笑って、それでも大人しく腕の中に収まった。どうして人肌というものはこうも安心できるのか。多分、楓くんだからだとは思うけれど。 「もう、お寝坊さんの常套句ですよ」 うつらうつらと頷く俺の頭を撫でた彼はきっと笑っているだろう。仕方ないと零す声、額に感じる柔い熱。 手放した意識が戻ったのは、昼前だった。 それから夕食まで、育った街を案内するという初めての体験をすることに。 何せ実家に来たのは瑠依だけ。全くのノープランだったものの、始終楽しそうな楓くんが見られたからまあ良しとしよう。 夕食後。居間に残ったのは俺と楓くん、父母と何故か淕。兄夫婦は旅館の仕事があるからと席を外した。 「それで…2人はどこで知り合ったの?」 何を聞かれるか身構えていた俺を拍子抜けさせるような、母さんの声音。完全にただの恋バナ程度にしか感じられない。隣の父さんも興味津々といった雰囲気を醸し出している。 淕が呆れたように笑って、出された紅茶に口をつけた。隣の楓くんが送ってきた視線を受け止めて。 「歌舞伎町の、コンビニ」 「僕ともそうだったね」 頷く淕に微笑んだ楓くんも、少し戸惑った様子。それから今に至るまでをかいつまんで話した。 「やだ素敵、ドラマみたいじゃない?」 「ああ、そうだね」 はしゃぐ母さんを優しく宥める父さん。そのままの声で、しかし口調はしっかりしたものに変わる。 「…でも、これは、現実だ」 楓くんが身を固くする気配。手を握ってやれば強ばる口元が少し解けた。

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