288 / 330
288.
頬を撫でた細い指が離れて、隣の楓くんが眠りについたことを悟る。
(………反則、)
暗がりに慣れた目を薄く開け、ふとため息を吐いた。名前で呼ばれることに思ったより免疫が無い。
少し恥ずかしそうに、けれど甘さを含んだ声は正直、毒以外の何物でもなかった。
動揺を隠すため、咄嗟に選んだ狸寝入り。朝になったらこの熱も引くだろうか、と。触れられた頬を抓る。
「…おはようございます」
控えめに体を揺らされるが、却って心地よいそれは眠りから目覚めさせるには不十分で。夢と現 の間を揺蕩いながら薄目で生返事をする。
「あと5分………」
引き倒した彼はくすりと笑って、それでも大人しく腕の中に収まった。どうして人肌というものはこうも安心できるのか。多分、楓くんだからだとは思うけれど。
「もう、お寝坊さんの常套句ですよ」
うつらうつらと頷く俺の頭を撫でた彼はきっと笑っているだろう。仕方ないと零す声、額に感じる柔い熱。
手放した意識が戻ったのは、昼前だった。
それから夕食まで、育った街を案内するという初めての体験をすることに。
何せ実家に来たのは瑠依だけ。全くのノープランだったものの、始終楽しそうな楓くんが見られたからまあ良しとしよう。
夕食後。居間に残ったのは俺と楓くん、父母と何故か淕。兄夫婦は旅館の仕事があるからと席を外した。
「それで…2人はどこで知り合ったの?」
何を聞かれるか身構えていた俺を拍子抜けさせるような、母さんの声音。完全にただの恋バナ程度にしか感じられない。隣の父さんも興味津々といった雰囲気を醸し出している。
淕が呆れたように笑って、出された紅茶に口をつけた。隣の楓くんが送ってきた視線を受け止めて。
「歌舞伎町の、コンビニ」
「僕ともそうだったね」
頷く淕に微笑んだ楓くんも、少し戸惑った様子。それから今に至るまでをかいつまんで話した。
「やだ素敵、ドラマみたいじゃない?」
「ああ、そうだね」
はしゃぐ母さんを優しく宥める父さん。そのままの声で、しかし口調はしっかりしたものに変わる。
「…でも、これは、現実だ」
楓くんが身を固くする気配。手を握ってやれば強ばる口元が少し解けた。
ともだちにシェアしよう!