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10月。厚手のコートを羽織るにはまだ早いと残念に思ってしまった、寒がりな自分に苦笑をひとつ。ゆっくり歩きながら事務所へ向かう。 「ああ、おはよう。ルイ」 「すみません遅くなって」 頭を下げる俺に手を振る、オーナーの直人さん。目の前に置かれるカフェオレはちょうど自分好みの甘さで、言わずともそれがどれだけの時を共に過ごしたか表していた。 「…まあ、一応。希望に合いそうな案件は見繕ってきたけど」 「ありがとうございます」 手渡された資料に目を通すことしばらく。ふと顔を上げる。 何とも言えない表情の彼に微笑めば、がしがしと頭を掻いて立ち上がった。 「店のオーナーとしても、俺個人としても。辞めて欲しくないのは本音だよ」 自分用に煎れるのは、恐らくブラックコーヒー。出会った頃より背中が少し頼りなくなったように見えて、息が詰まりそうになる。 「……本当に、迷惑掛け通しで」 小さく呟くと、振り向いた彼は一瞬の後に軽やかな笑い声を上げた。 「何だよ殊勝に。お前らしく無いぞ」 どう返して良いのかわからず、ただ黙ってカフェオレに口をつける。手元の資料は帰ってからきちんと見よう。 「最後はきちんと恩返し、しますから」 思いの他しっかりとした声音に目を瞬かせたオーナー。俺自身、こんな声も出せたのかと驚く。 揺れる瞳に()ぎった僅かな哀愁。瞬きの()に霧散すると同時、その口元は不敵な笑みを象って。 「当たり前だ。派手にやってもらうからな」 そこから先、対峙したのは敏腕経営者としての彼だった。

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