297 / 330
297.
10月。厚手のコートを羽織るにはまだ早いと残念に思ってしまった、寒がりな自分に苦笑をひとつ。ゆっくり歩きながら事務所へ向かう。
「ああ、おはよう。ルイ」
「すみません遅くなって」
頭を下げる俺に手を振る、オーナーの直人さん。目の前に置かれるカフェオレはちょうど自分好みの甘さで、言わずともそれがどれだけの時を共に過ごしたか表していた。
「…まあ、一応。希望に合いそうな案件は見繕ってきたけど」
「ありがとうございます」
手渡された資料に目を通すことしばらく。ふと顔を上げる。
何とも言えない表情の彼に微笑めば、がしがしと頭を掻いて立ち上がった。
「店のオーナーとしても、俺個人としても。辞めて欲しくないのは本音だよ」
自分用に煎れるのは、恐らくブラックコーヒー。出会った頃より背中が少し頼りなくなったように見えて、息が詰まりそうになる。
「……本当に、迷惑掛け通しで」
小さく呟くと、振り向いた彼は一瞬の後に軽やかな笑い声を上げた。
「何だよ殊勝に。お前らしく無いぞ」
どう返して良いのかわからず、ただ黙ってカフェオレに口をつける。手元の資料は帰ってからきちんと見よう。
「最後はきちんと恩返し、しますから」
思いの他しっかりとした声音に目を瞬かせたオーナー。俺自身、こんな声も出せたのかと驚く。
揺れる瞳に過 ぎった僅かな哀愁。瞬きの間 に霧散すると同時、その口元は不敵な笑みを象って。
「当たり前だ。派手にやってもらうからな」
そこから先、対峙したのは敏腕経営者としての彼だった。
ともだちにシェアしよう!