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*326.
「ごめんね」
謝ってもなお、譲れない部分があった。
楓くんが俺を欲しがらなければ意味がない。
しばらく髪を撫でてやって、胸元に沈む彼の呼吸が落ち着くのを待った。正直この状態のままで辛いのは俺の方だ。
「ひかる、さん、が…いい、」
「うん?」
ぼそりと落とされた言葉が耳朶を擽る中、頬に唇を寄せながら続きを促す。
「…おれ、もっと…頑張ります、から」
続く文章はなくとも、昼間のことを指しているのだと容易に推測できた。だから、しっかりとその濡れた瞳を見据えて。
「楓くんじゃなきゃ駄目なんだ」
揺れる最奥は、今どんな想いを秘めているのか。全て包んであげたいと、笑った。
「…だから、もっと、欲しがって」
貪欲になっても構わないのだと。この青年に分かってもらいたかった。
解けた唇から零れる気持ちは。
「すき……大好き、です」
首筋に埋めた相貌は見えないけれど、紡がれた言葉を丁寧に受け止めて、出来る限りの優しい声音を届ける。
「俺を…こんな気持ちにさせるのは、君だけだよ」
ぼんやりと瞬く彼は、あまり意味を理解していないようにも見える。それでも伝えておかねばならない気がして、けれど、続ける言葉を間違えたかもしれない。
「お店を始めてから色んな人と出会うようになったね」
溶けた瞳が段々と見開かれ、緩く首を振る楓くん。赤子がむずかるようにこちらへ縋りつくその仕草に、また勘違いさせてしまったことを悟った。
「大丈夫、だいじょうぶだから」
ずっと一緒だと囁けば、安心したのかするりと腕が離れる。少し腫れてしまった唇を親指で労るように撫でて、ぐっと顔を近づけた。
「…動いていい?」
限界、と息を吐けば、一拍置いて楓くんの頬が染まる。頷く彼の睫毛から零れ落ちた水滴を目にとめ、再び唇を覆った。
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