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番外編 ワンライお題『鏡』

 昔から、鏡が苦手だった。  父に刻まれた傷痕も、その父に年々似てくる顔も、見たくはなかったから。  だから華の自宅の洗面所には、鏡が無い。無い、というより、無くした。  賃貸の古いアパートに備え付けられた洗面台の鏡は、入居した直後から、百円ショップで買ってきたバンダナで覆ってある。髭を剃ったり、髪を整えたり、日頃の身だしなみのチェックには、最低限しか映らないコンパクトなスタンドミラーを利用するようにしていた。  華はその生活にすっかり馴染んでいるので、別段不便を感じることもなくなっている。  だが、保育士を目指すという航汰が、勉強を理由に初めて華の部屋に泊まることになり、そこで初めて「しまった」と思った。  これまで何度もこの部屋に来ている航汰は、きっと洗面所の鏡が覆い隠されていることにもとっくに気付いているはずだ。だが、その理由を特に追求されることもなかった。  年の割に気の利く航汰のことだから、恐らく聞かずとも察してくれているのだろう。  だが、航汰はまだまだ年頃の高校生だし、泊まるとなれば鏡が無いと多少なりとも不便なはずだ。  自分よりずっと歳下の航汰に気を遣わせる前に元に戻しておくべきだった、と悔やみつつ、航汰がシャワーを浴びに風呂場へ入ったのを確認して、華はずっと鏡に被せていたバンダナに手を掛けた。  この布を捲れば、目を背けられない華の姿がある。  無意識に眉を寄せながらバンダナを取り去ろうとしたとき。 「華先生」  ガチャ、と不意に浴室のドアが開いて、隙間から裸の航汰が顔を覗かせた。 「航汰……?」  ギクリと動きを止めた華の腕へと視線を滑らせて、航汰が「やっぱり」と苦笑する。 「ソレ、外さなくていいよ」 「……どうして気付いたんだ?」 「だって華先生デカイから、影でわかるよ。それに、先生ならきっと俺が風呂入ってる間に外すんだろうなと思ったから」  何故こんなにも見透かされているんだと、さすがに少し情けなくなる。いや、実際自分の顔を見ることから逃げ続けている自分は情けない大人なのだが。 「鏡がないと、不便だろ」  自分のことは棚に上げた華を、航汰がドアの隙間から苦笑混じりにチョイチョイと手招きしてくる。誘われるまま近づいて軽く身を屈めると、首を伸ばした航汰がチュ、と華の唇に素早く口付けた。 「俺の顔になんか付いてたり、髪がハネてたら、華先生が教えて。二人居たら、お互い確認し合えるんだから、鏡なんかなくても大丈夫だよ」  少し照れたようにそう言って、航汰は今度こそ浴室に引っ込んだ。  閉じたドアを見詰めて立ち尽くす華の耳に、シャワーの水音が聞こえてくる。  ゆっくりと首を捻った先には、覆われた鏡。  ───そうだ。鏡なんて、俺には必要ない。  姿は変わらなくとも、この傷だらけの自分を映して眩しい光をくれる、愛おしい瞳が、今は傍にあるのだから。  外しかけた布をそっと元に戻して、華はまだ微かな温もりが残る唇を綻ばせた。

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