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60.
「上がって」
「…お邪魔します」
先導する橋本さんの背を追って、室内に足を踏み入れた。
あの後。落ち着いた頃を見計らって帰りを促せば。
『……家、来て、ほしい』
普段とかけ離れた声音でそんなことを請われ、断れるわけもなく。ただでさえ痴漢野郎に腹が立っていたところだ。それと同時に彼の心も心配で。
「あー…コーヒー煎れる。ソファーで待っ――」
「橋本さん」
キッチンへ向かおうとうする彼の腕を、掴んだ。びくりと揺れた体をこちらに引き寄せる。
「良いから。ここに居て」
華奢な体躯を抱きこめば、僅かに伝わってくる振動。肩口に埋めた顔は、しばらく上がることが無かった。
「……あきら、さん」
漢字が分からない故に、呼びかける声はどうしても幼くなる。それを感じ取ったのか、ふと笑った彼は。『彰』と、再び手のひらに指を滑らせた。
クリスマスを思い出すその動きに、どうしても胸が締め付けられる。
「あの……」
「…ん、運んで」
記憶を消すことは出来なくても、薄くさせることは自分にも出来るかもしれない。というより、そうしたかった。
おずおずと声をかければ、全て分かったような顔で微笑む彰さん。伸ばされた両手を首裏に回して、抱き上げる。
「………優しく、します」
自分への戒め半分、彼への宣誓半分。硬い声で呟いたそれに、思わずといった体で吹き出した彼は、首筋に顔を寄せる。
顕になった頭頂部へ口付けを落とし、寝室へ歩を進めた。
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