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62.
芹生くんの背中を見送ってから、軽く伸びをする。大変そうだなあ、とひとりごちて歩き出した。
さて、今日も仕事だ。すっかり闇に包まれた夜の街を眺めて―――思わず、止まる。
足が竦んだ。
(な、なん……っ、え、…!)
横断歩道の向こう。少し伏し目がちな相貌には、嫌というほど見覚えがある。
間違いない。アイツだ。
引き返さなければと思うのに、縫い止められたようにその場を離れられない。握りしめた拳の痛みを支えに、どうにか視線を外そうとした、けれど。
「あ……」
「…っ!!」
目が、合う。数百メートル離れているのに。周囲にはたくさんの人がいるのに。あきら、とその口が象るよりはやく、踵を返した。
嗚呼、どうして。こんな時に限って、信号はすぐに変わってしまう。
「彰!」
地の利は自分にあると思っていた。こうもあっさり捕まってしまっては堪らない。息を切らした青年2人が押し込められる路地裏なんて、誰も覗かないだろう。
「……痛えんだけど」
壁に押し付けられた肩が熱い。久しぶりに走ったせいか、アルコールが回ったのだと、そう、思いたかった。
「こうでもしないと、また逃げられる。冗談じゃないよ」
少しの哀切を含んだ声音。懐かしい響きに、そろりと顔を上げる。
久しぶりに見たとはいえ、彫りの深い造形は昔のままだ。長い睫毛、幅広の二重。大きいながらも整った唇はどこか色気を纏う。異国の地を思わせる、幾重にもかさなる深い色彩の瞳が苦手で――同じくらい、好きだった。
「…原因作ったのはそっちだろうが」
好きこのんで逃げたわけじゃない。せめてもの抵抗に身をよじると、あっさりと離れる掌。降参とばかりに上へ挙げている。
「まあ…うん。そうだね」
歯切れの悪いところから察するに、自覚はあるらしい。なければ問答無用で立ち去るところだった。
「で?わざわざ殴られに来たのかよ、高田さん」
ふ、と口端を歪めて笑ってやれば、細いため息が降ってくる。僅かに寄った眉は、それでもすぐ元の位置へ戻った。
「――聞いて。」
一度も耳にしたことのない、真剣な声。思わず背筋に力が入る。
「信じてもらえないだろうけど…この数年間、ずっと後悔してた。こんな所で軽々しく話せるようなことじゃないし、出来ればまた機会をくれないか」
急に現れて調子の良いことを、と一蹴してやりたかった。そう、鳩尾に数発お見舞いすれば良かったんだ。もしもルイが俺の立場なら迷わず叩き込むだろう。
―――でも。
「彰の時間が欲しい」
良く知った顔の、知らない表情。目の前の彼は本当に自分の記憶に息づく彼なのか。混乱の最中最中 にあって、冷静に判断できるはずもなかった。
残されたのは、手の中で踊る紙切れ一枚。
[高田 弘人]
名前と社名、それから連絡先が記されたどこにでもある名刺だ。破り捨ててやろうとして、結局くしゃりと握り潰すに留める。
気がついたらその場に座り込んでいた。
あの透き通る2対の硝子玉が脳裏に焼き付いて離れない。こびりついた記憶までも引きずり出されてしまいそうで、結局捨てられていないのかと自嘲の笑みをひとつ。
真摯に向けられた視線を、声を。無下に出来るはずもなかった。忘れていた熱が燻り出すのを押し留めようと、唇を噛んで俯く。
なぜ今なのか。居もしない神に問うたところで、もう遅い。きっと、再び、歯車が動き始める。
そう、巡り会ってしまったのだから。
死ぬほどの恋をした、相手に。
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