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64.
「…久しぶりに、な。懐かしい奴に会ったんだよ」
橋本さんが口火を切る。電話の時点で明らかに何かあったことは確実だから、どうしても聞きたいと思っていた。
「んー……まあ、なんだ。その、昔ちょっと関係があった人でさ」
軽く頭をかいて笑う。彼の言う『関係』とは。俺の想像が間違っていないのであれば―――
「…付き合ってた、とか?」
「そう。ばったり町で会っただけだから、日を改めて話したんだけど…仕事の関係で4月からこっちに住むらしい」
「ええと…良かったです、ね?」
元恋人、という点は微妙なところだけれど。馴染みのある人が近くにいるのはマイナス面ばかりではないように思う。だというのに、この落ち込みようは―――…?
(もしかして、)
ひとつの可能性に行き当たる。苦い記憶だと語っていた、その相手だろうか。
なんとも言えない俺の表情に気づいたのか、眉を下げる橋本さん。
「…良い機会だから。話しておくか」
ひとくちコーヒーを啜って、吐き出された息が空気に溶けきる。揺れる視線が不安定で、ただ漠然とした焦燥感に駆られた。
「――…と、言うわけ」
聞かされた内容は、筆舌に尽くしがたいもので。平然としているこの人は、どれほど悩み苦しんだのか。少なくとも自分には理解できない。
「……今後も、交流するんですか」
「もう昔のことだから。気にしてねえよ」
強い人だと感心しかけて、思い直した。膝の上に置かれた、震える拳を見てしまったから。
「あー…と。今日は帰ります」
壁掛け時計にちらりと目をやれば、バイトの時間が迫っていた。玄関まで送ると言った彼を背に、靴を履く。
「変なこと聞かせて悪かったな」
「いえ…」
ただのセフレなのに、と続きそうな雰囲気に首を振った。上がり口で困ったような笑みを浮かべる、その様子に耐えられなくて。
「…橋本さん」
「ん?…え、うわ、」
強引に手を引き、腕の中に閉じ込めた。抵抗を覚悟していたのに。存外静かな彼は何を考えているのか。ああ、でも…
(やっぱりこの高さが良いな)
ふ、と笑って離れた。ひと睨みされたものの、特にお咎めがなかったことにほっとしながら扉を開ける。
「じゃあ、また」
閉まる直前に聞こえてきた「…狡い」の言葉。空耳でないことを願いながらゆっくり歩き出した。
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