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「失礼します」 ノックの後に続いた聞き慣れない声。僅かに身を硬くする。ひょこりと覗いた相貌は、やはり記憶にないもの。 「お久しぶりです。ああ、ええと……芹生楓、と申します…」 今まさに考えていた人物の登場に、思わず口を開けたまま静止してしまった。一方の彼はといえば、顔馴染みに改まった挨拶をする気恥ずかしさからか、仄かに頬を染めていて。 (これは……納得) ルイが骨抜きになるわけだ。ひとり訳知り顔で頷く俺に、あの…?と首を傾げる芹生くん。 「…あ。悪い、考え事してた…んーと、見舞いに来てくれてありがとうな」 「いえ…むしろ、その…大変な時に何も出来ずすみません……」 心配と不安が綯い交ぜになった表情でしょんぼりと肩を落とす彼。出会って数分、もう分かる。間違いなく心の綺麗な子だ。 「や、その気持ちだけで充分だよ。早く思い出せるように頑張るから…色々迷惑かけるかもしれないけど、よろしくな」 「…!っ、はい……ずっと、待ってます、から」 泣きそうに顔を歪めた彼の頭を撫でようとしたところで、再び扉を叩く音。はっとした表情の芹生くんが「今日はもう一人来てるんです…あの……友達、が」と告げて振り返った。 「……どうも」 ガラリと開いた扉。一瞬、息が詰まる。紫黒の瞳に射抜かれると、どうしてだか胸が締め付けられて。急に訪れた身体の変化に戸惑いつつも、悟られないように深呼吸を繰り返す。 ルイより少し低いくらいの背丈だろうか。懐かしいと感じる程には仲が良かったらしい。……その割には、無愛想な気がしないでも無いが。 「…ちょっと2人で話させてくれるか」 その言葉に頷いた芹生くんは、ご自愛くださいと微笑んで部屋を後にした。 しん、と静まり返る空気。「俺達からです」と置かれた見舞いの品を眺めていると。 「…何か、言いたいことは」 尋問かよ、と突っ込みたくなるのを堪えて知性を総動員させる。 「え?何って……は、初めまして…?」 フル稼働させた脳は、やはり足りなかったらしい。深いため息と共に、その紫黒は瞼に隠れてしまった。いきなりやって来るなり尋問まがいの言葉をつきつけて、挙句落胆するとは何様だと憤りかけたその時。 「……本当に覚えてないんですね」 吐息と共に落ちてきた声音は、何故か目頭を熱くさせた。忘れてしまった自分が悪いのだと分かっている。分かっていて――それでも、ここまで思い出したいと感じるのには訳があるはず。 理由を問おうと口を開いたけれど。 「…初めまして。細田、寿人です」 そんな声で、表情で、絞り出すように告げられてしまえば何も言えなかった。唇を噛んで俯く。 「幸せに、…なってください。……思い出さなくて、いいですから」 弾かれるように顔を上げたものの、閉まりかけた扉のせいで見える背中が減っていき――ついに、面積がゼロになった。 正反対の言葉を残す謎めいた2人。 そのまま数秒、ぼんやりと扉を眺めて。 (あ……) ルイとは、すれ違わなかったのだろうか。もしかしたらまだ芹生くんは院内に残っているかもしれない。話をしようとふと思い立ち、そろりと扉を開けた。 左右を見渡して、ある一点に目が留まる。 病室を2つ挟んだ先の長椅子。こちらに背を向けるのは芹生くん。その首筋に顔を埋めるのは――細田、くん、で。表情が見えない上に何を話しているのかすらも分からない。けれど、彼の背中を撫でる芹生くんの手つきは"優しさ"そのものだった。 そう認識した途端、みぞおち辺りに針を突き立てられたような錯覚に襲われて。ずるずるとその場にへたりこみ、顔を覆う。 先ほど、待っていると声をかけてくれたあの優しい芹生くんにさえ仄暗い気持ちを抱いてしまった。そんな自分が酷く醜いもののように思える。 関わりたくない、と。急に込み上げてきた感情。 関わりたくない―――関わるべきではない、関われない。 色々と言い訳をして、結局は逃げたいだけなのだと。分かっていても従うしかなかった。

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