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「あー…ええと、お疲れさん」 「…ご無沙汰してます」 久しぶりに家へ上げた細田は、少しやつれたような気がして。どことなく聞きづらい空気のまま、ぎこちなく挨拶を交わす。 「今日、眼鏡なんだな」 取りあえず目に付くところから会話を深めようと試みる。そういえば彼の眼鏡姿は初めて見たかもしれない。 「ああ…ちょっと昼寝しようかと思ってたんで」 「…そっか」 疲れているところに何とも言えないメッセージを送り付けて申し訳なく思う。無視することも可能だっただろうに、何故すぐ来てくれたのかと問うことはできなかった。 それきり黙った俺の頭上に細いため息が降ってくる。呆れられてしまったかと直感的に察すれば、自分でも驚くほど大袈裟に肩が跳ねた。 「……コンタクトにする時間も惜しかったから」 「へ、」 驚いてそちらを向けば、真一文字に結ばれた口元と泳ぐ目線。これは……恥ずかしいと感じている時の顔。認識すると同時、自分にまで伝染する羞恥。 「橋本さんが、会いたいと思ってくれてたのが嬉しくて」 「う、ん……」 どうにか頷く俺の顔はきっと赤いだろう。 ――でも。 「…あなただけじゃないんですよ」 わかってます?と柔らかく笑う彼は、首を傾げた。その耳も仄かな紅に染まっているのを認めた途端。 (なんだ、これ) みぞおちがきゅうと収縮して、熱くなる目頭。 想いが伝わるということは、こんなにも幸福をもたらしてくれるのか。決して一方通行ではないその事実がたまらなく嬉しくて――もう、駄目だった。 決壊したダムのようにぼろぼろと零れる水滴を拭う。

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