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87.

カタン、とテーブルに置かれた眼鏡。持ち主の手を辿って、上へ視線を戻すと。 「……おいで」 広げられる両手と顔を交互に見比べた。意図が分かっていても、どうしたって躊躇してしまう。 「俺、いま何も見えてないですよ」 だから、と笑ったその表情に後押しされて。あたたかい腕へ飛び込んだ。 ひとしきり流した涙が落ち着けば、今度は改めてこの体勢の恥ずかしさを思い知らされる。照れ隠しで何か話そうと少し体を離した。 「…なあ。全然見えてねえの?」 「結構視力悪いですから」 大真面目に答える彼へと、悪戯を仕掛けてみたくなった。 ふと思いついたそれはいかにも恋人同士がしそうな方法で――自分の発想に笑ってしまいそうになりつつ、僅かに顔を近づける。 「…これでも?」 「見えませんねぇ」 どうやら伝わったらしい。この悪巧みに乗ってくれるのか、目を細めて首を振る彼の口元は緩んでいた。 「じゃあ、これは――…っ、」 最後まで言葉を紡ぐことは叶わなかった。続きを吸い込んだ柔らかい唇は、そのままあちこちに落とされて。 「…ばか」 胸元に押し付けた顔が、あつい。 自分ばかり翻弄されているようで悔しい、と。左右にぐりぐり動かしてみる。 「……ほーんと、かっわいい」 ぼそりと落とされたそれは、本音だろうか。唸る彼の腕に込められた力が強まって。 可愛すぎてやばい、と。くぐもり響く声に、また心臓が痛くなった。速まる鼓動はきっと隠しようがない。 幸せすぎて不安、だなんて陳腐な表現を使う日が来ると思わなかった。 けれど、彼は――女性を、きちんと愛せる。俺とは違うのだから。 [幸せ]と[不安]が同じだけの分量を含むからこそ。[好き]の裏側に[嫌われる]怖さを感じてしまう。 別れに怯える日々の中だとしても、幸福な記憶をできるだけ多く作っておきたい。終わりが訪れないうちに、たくさん。

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