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ⅩⅨ

 涙を流しながら、(まぶた)の裏に浮かぶのはかつての自分と優しい母と、ソメイヨシノが咲き誇る広くて美しい庭園、そして隣に寄り添って、物語を読む心地の良い声。 「おかあさまぁ…おかあさま、どこですかぁ…。」  いつの間にか(はぐ)れてしまった母を探して、幼い自分は泣きながらさまよっていた。するとブワッと風が吹いて、花の香が嗅覚を掠める。目をこすって顔を上げると水色の空に桃色の花弁が舞っていた。  水色の画用紙に桃色のクレヨンで斑点を描いたような景色に、自分は見惚れてしまった。その目線を少しだけ下げると、桜の咲き誇る大きな樹木があって、根元に人の影が見えた。 「あれは、おかあさま?」  一縷(いちる)の希望を抱いて自分は走り出した。「おかあさま」と探し人である母を呼びながら。  あと数メートルの場所で認識したのは、その人影は自分の母ではなかったということ。だが自分は淋しさで泣くことを忘れてしまった。幹に(もた)れて座り、気怠(けだる)そうに本を読んでいるその姿が、まるで絵本の中の王子様のように麗しく自分の目に映った。  ざっ ざっ  自分が踏み鳴らす芝生の音に、王子様は自分に気が付いたようだった。向けられた目は切れ長で一層美しく、桜の花弁と風も王子様の為の特殊効果なのではないのかと思う程。 「どうした?」  高慢そうな言葉に似合わない優しく甘い声。まだ未成熟な男声だからというだけでない。幼い自分にはそれがよく解った。 「おにいちゃん…おうじさまなの?」  首を傾げて彼に問うと、王子様はクスッと笑った。その笑顔が忘れられなかった。 「王子様ではないな…。」  自分は母を見失った淋しさを忘れて、王子様に夢中になってしまった。 「来なさい、一緒に君のお母様を探してあげよう。」  美しく大きく温かな手が、冷え切ってしまった自分の手を包み込んで導いてくれる。本当の王子様だと自分は思った。それが出逢い。 「君の名前は?」 「はい、ぼくはXXXX XXXです!おにいちゃんは?」 「僕は、XXXX XXXX…覚えなくても良い。」 「はい!XXXXおにいちゃん。」  そして無事に母の元に辿り着くと、母は王子様に頭を下げていた。 「申し訳御座いません!XXXX様のお手を煩わせてしまいまして、なんてお詫びをしたら良いのか…。」  話を聞いた父は自分を酷く叱った。 「XXXX家の次期当主であるXXXX様にそのような世話人の様なことをさせおって!」 「旦那様、おやめ下さいませ!」  世話係のおばさんが自分を庇ってくれたが、それを機に度々と自分は父から激しく折檻された。王子様は、自分のような人と関わってはいけない高貴な王子様なのだと思い知った。  だけど幼い自分は、あの水色と桃色をもう一度だけ見たくて、今度は迷わぬように慎重になりながらあのソメイヨシノの樹を目指した。するとまた王子様は樹の下で本を読んでいた。 「XXX。」  今度は王子様の方から自分に話しかけてきたが、自分は無礼にも王子様から顔を逸らした。王子様が自分に近づくことは足音で解る。 「XXX、来なさい。」 「ダメです。だってXXXX…さま、は、ほんとうのおうじさまだから、おとうさまにしかられます。」  教わったばかりの丁寧な言葉で王子様に話すと、王子様はあの日に自分を導いてくれた美しい手で自分の震える頬を撫でた。 「XXXは物語は好きか?」 「……へ?」 「好きか?」 「…はい、すき、です。」 「来なさい、読んであげよう。」  高慢なのに優しい握りしめてくれる手。そして、ソメイヨシノの香りと、春の風と。 「僕の“お守り”…は……理仁さま、だったのですね。」  自分の(うしな)ってしまった名前を呼ぶ声と温もり。

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