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Ⅷ
中野の事務所に帰ると、もう午後9時を回っていたのに明かりがついていた。真智雄は首を傾げてドアを開けると、奥の社長席で諸角がフルーツタルト(ホール)を穏やかに食べていた。
「あんれ?社長、残ってたんですか?」
「ええ。前金を金庫に入れなければと思いましてね。」
諸角はにこりと笑いながらそう言うと、いつもの金色のフォークでタルトを刺した。
真智雄は1億円の入ったトランクを金庫の前に置きながら呆れたように呟く。
「もしかしたら売れなかったかもしれなかったのに…。」
「我が社は商談成立100%の実績がありますからね。まさか商談不成立などと言う不名誉な記録をまさか真智雄くんごときが叩き出すなんて思ってませんよ。」
真智雄の心はグサグサとナイフが刺さった。
(これ、鞄に盗聴器でも仕込まれているんじゃ…。)
「それで、どの子が売れたのですか?」
少しぬるくなったストレートティーで口を潤しながら諸角は結果を尋ねた。
「ルクスくんです。お客様には彼の身体ハンディも了承して頂いてます。」
「そうですか………しかしギリギリでしたねぇ、彼、もうすぐ19歳でしたから、私も嬉しいですよ。」
その心がこもってない喜びの言葉に真智雄は背筋が凍った。
「彼のお手製サンドウィッチは私のお気に入りでしたので少し寂しいですね。」
いつの間にかタルトを平らげていた諸角は鼻歌を歌いながら金庫を解錠する。真智雄は少しだけ拳を握る。
「社長、今日…フーちゃんとローちゃんの現在を知ってしまいました。どうやら今日のお客様はそこでangelus を知ったらしくて………。」
「真智雄くん。」
少しだけ強い口調で名前を呼ばれて真智雄は言葉を飲み込んでしまった。諸角は壱万円札の束を収納しながら真智雄を見ずにまた穏やかに話す。
「東中野に帰ったら誠子さんにルクスの件はきちんと伝えてくださいね。それで君の今日の業務は終了です。お疲れ様でした。」
それから真智雄は何も言うことができずに、いつも通りに諸角に頭を下げて「お疲れ様でした」と告げ、事務所をあとにした。
バタン、と扉が閉まる音が古いビルの階段に響いた。なんとなく階段で下まで降り、原付に手を着いた瞬間、腰が抜けてしまった。
(なんだ…これ………震え、止まんねぇ………)
10分しても震えは止まらず、それを止めたのは何度もしつこく振動する真智雄の私用のスマホだった。ガタガタと震える指で通話ボタンをタップする。
「もし、もし…。」
声も震えながらやっと声を出すと、受話器の向こう側はとても賑やかだった。
『お、真智雄ー!今さ、俺とリョーちゃん東中野にいんだけどぉ、麻雀終わったからリョーちゃんと3人で飯でも食いにいかねぇ?雀荘の近くにウチのシマがあってよぉ、そこの中華屋で飲もーぜ…って、真智雄?』
電話の相手、好重は真智雄の返事がなくて怪訝な声を出した。すると真智雄はなんとか原付を支えに立ち上がって答えた。
「劔さ、ん…ごめん、俺まだ仕事残ってんすよ……今度、お願いします。」
そして好重の言葉を待たずに通話を終了した。
(やんなきゃ、これは俺の仕事だもん、な。)
やっと震えを止めた真智雄はヘルメットをかぶって原付にまたがった。エンジンをかけるとすぐに東中野の方へ走り出した。
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