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Ⅸ
土曜日の朝、ルクスは中野の事務所にいた。
「ルーちゃん、ちょっとお目目閉じてねーん。」
今日はルクスが四方木主久の元へ旅立つ日、少しだけ目に掛かっていた黒い前髪を誠子が整えていた。
「ルーちゃんの可愛いお目目がきちんとご主人様にわかるようにしないと、ねぇ。」
誠子はゆっくりと、ルクスが読唇できるように話していたが、今のルクスは目を閉じていて誠子の声は聞こえていなかった。だけど、ルクスはその雰囲気を察知して幸せそうに微笑んでいる。
「チッ、なんだよぉ。守隨組 も人手不足だからそのガキを事務所番に引き入れようと思ってたのによぉ。」
アタッシュケースや書類諸々を準備している真智雄の机に凭 れながらフーセンガムをくちゃくちゃと咀嚼する好重は不貞腐れたようにそう言う。
「ダメよん!こんな幼気 なルーちゃんをあんた達みたいな野蛮な集団に入れさせらんないわよ!」
「別に事務所番ぐれぇなら堅気 のまんまだっつの。事務所やオヤジの家の炊事洗濯掃除やってもらうだけだよ。」
「それでもよ!ったく、こんなに可愛いんだから獣どもになにされるか…。」
「なぁに親父みてぇなこと言ってんだ、誠子ぉ。」
「誰が親父じゃゴルァ!」
誠子から誠一郎が飛び出した。
「なぁ真智雄。」
「はい?」
亮太郎は忙 しなく準備をする真智雄に近づいて気だるそうに声をかけた。
「これ、社長の名刺。」
「え?」
亮太郎は真智雄の机にポンと漆黒で光沢のある名刺を雑に投げた。それは真智雄も入社する際に渡された以来に見たものだった。
――Angeluse representative T.M
(あ、そういえば社長と俺、イニシャル一緒なんだっけ。)
「あれ?リョーちゃん先輩、社長は?」
「あ?なんか浅草橋に限定のシュークリームがあるとかなんとか言ってたな昨日。」
「あの人のスイーツへの執着は何なんですかね…。」
諸角不在の中、ルクスのおめかしは滞りなく終わり、いよいよルクスはこの慣れ親しんだ中野と別れを告げる。
『ルーちゃん、ずっと一緒で楽しかったわ。元気でね。』
誠子は涙目になりながら拙い手話で伝えると、ルクスは誠子に抱きついた。
「ありがとうね、ルーちゃん。」
そんな誠子の呟きは、ルクスには聞こえなかったが、伝わったのか、ルクスも別れを惜しむように涙を一筋だけ流した。
『主人の言うことをしっかり聞くんだぞ。お前なら大丈夫だ。』
亮太郎は難なく手話でルクスに厳しくも、優しい言葉を伝えた。ルクスは笑いながらコクリと頷いた。
『これから、がんばります。』
ルクスの強く握った拳を亮太郎はパシッと受け止めた。そして最後は好重。好重もなぜか亮太郎と同じくらいに手話を使いこなせてた。
『真智雄を信じろ。次の主人はきっといい奴だからな。』
ルクスは一度真智雄を見つめる。真智雄が「信じてほしい」と伝えるように笑ってルクスに頷くと、ルクスは好重に深く一礼をした。
(そうだよな、ルクスくんを何度も助けたのは劔さんだもんな。ルクスくんにとって劔さんは命の恩人、ってことか。)
真智雄は頭を下げたままのルクスの肩を叩いて身体を起こさせた。そして静かに頷いた。ルクスはもう一度、誠子、亮太郎、好重の方を向くと言葉を伝えた。手話で。
『ほんとうに、ありがとうございました、とても、さみしいですが、ぼくは、がんばります。』
白い手袋をはめた真智雄の手に引かれて、ルクスは送迎用の車に乗り、青梅街道を走るといよいよ知らない車窓が流れた。
(ぼく、どこにいくんだろう…でも、きっと、だいじょうぶ……まちおがいるから、だいじょうぶ、よしえがだいじょうぶっていってた………うん、だいじょうぶ。)
その頃、買主である主久は休日用の黒縁のスクエアフレームの眼鏡をかけてリビングの窓を少し開けてなんとなく西の方向を眺めていた。
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