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第1章-3

「自己紹介すらまだだったから、いろいろびっくりさせちゃったよね。僕は榎本春樹(えのもとはるき)だ」 榎本はトレーに無造作に置かれていた紙ナプキンを広げると、ボールペンを使い、字形の整った丁寧な字で、自分の名前を書いて柊に見せた。 それから、西洋画を専攻している美大生、だと自分の身分を開示した。 榎本の通う学校は、美術関連とは無縁の柊でも名前をよく聞く、国内でも屈指の名門美術大学だった。 「俺は…下の名前はご存知の通り柊で、上は秋崎です」 「高校生っぽい感じだけど」 「はい。2年生です」 「若いねえ。いいなあ、青春真っ盛りじゃないか」 榎本が自分の身分を明かしたからか、完全に、とまではいかないが、柊の警戒心は解けていた。気味の悪い第一印象や、先ほど見せた強情な面とは違って、実際に話してみると、とても人当たりのいい好青年だというのもあった。 「何度も同じこと言っちゃアレだけど、まさか、君に再会できるとは思わなかった。僕はただ、小腹が空いたからここに寄っただけなんだけど。偶然というか、まさに運命だよね」 「そうですね、すごい偶然ですね」 「あのとき、君は風とどっかに行ってしまったからなあ。会えて本当に嬉しい」 柊は、榎本の言葉の端々が大仰な詩人めいているな、と思った。 榎本は、自分の頼んだフライドポテトとアイスコーヒーに手を付けず、おもむろに小さなスケッチブックを取り出した。 「折角だから、早速だけど君の似顔絵を描いてあげよう」 「えっ」 榎本の申し出に柊は面食らった。 「僕は人物画が得意なんだ。だから、この前のお礼といって、ハンバーガーを奢るだけっていうのもどうかとは思ったからね」 榎本は返事を待たずに、5B、という普段は柊が使うことがない濃さの鉛筆を取り出した。そうして、かりかりと画用紙に線を様々引き出した。 自分が絵のモデルにされるなど、人生で一度も経験がないから、どうすればいいか柊にはわからない。とりあえず、動いてはいけない気がして、ハンバーガーの包みを開く手を止めた。穴が開くほど、黒目がちの瞳に観察されると気恥ずかしいものがある。 息つく暇もなく、一心不乱に動かされる鉛筆の芯の先が画用紙の上に絵の外形をはっきりさせていく。 「完成したよ。ごめんね、食べてるところを邪魔してしまって」 榎本は、スケッチブックをひっくり返して柊に見せた。 榎本が描いた柊の絵は、たった約15分、鉛筆だけで描かれているというのに、陰影がとてもはっきりしており、即興で描かれているにも関わらず、特徴をよく捉えられていた。写実的に描かれているが、柊にとっては画用紙の中ではにかむ自分の顔が、どこか美化されているようにも見えてしまう。 「すごい、ですね…榎本さんほんと絵がお上手で…これもうプロのわざじゃないですか…」 「僕はまだまだ、画家のたまごでしかないよ」 榎本は謙遜するが、柊は感嘆する。絵というものには、てんで疎い柊だが、榎本の画力が秀でていることは素人目にも分かる。 「そうだな、これにちゃんと色を塗って清書したの、秋崎くんにあげる」 「ええ…そんな…」 「楽しみに待っていてよ」 柊は、人間は第一印象が全てではないと学んだ。榎本がこんなにも上手い絵を書き、話していても好印象しか残らない男だとは思っていなかったのだ。榎本のことを訝しんでいたことに罪悪感すら覚えた。 「じゃあ、食べようか。付き合わせてごめんね」 「いえいえ、そんな謝らなくても。ありがとうございました!」 柊は、多少は冷めていたハンバーガーにかぶりつきつつも、榎本に素朴な疑問を投げかけた。 「俺が拾った財布、そんなに大事なものなんですか?榎本さんに鍵を拾ってもらうどころか、ご馳走になったり、素敵な絵まで描いて頂いて…」 榎本はアイスコーヒーを啜ると、柔和な、優しい笑みを浮かべて答えた。 「そうでもなかったけど、君が拾ったあの財布はとても大事なものに昇華したんだ。今は厳重に保管しているよ」 柊は、腑に落ちない不可解な返答に首を傾げた。 時折、榎本は唐突に抽象的で、詩的な表現を用いる。普段、柊は榎本のような人種とかかわったことがないので、芸術家は、そういう傾向にあるのだろうかとぼんやり思った。

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