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chapter.5-28
「誰か呼ぶなんて言い出さなくて良かったよ。写真ですら恥ずかしかったのに」
可笑しな感性だ。自分にウェディングドレスを着せて喜ぶなんて。
青年は何時だって正しい癖に、時折此方のこととなると、度し難い尺度を持ち出して困らせてくれる。
「変なの。いつもお説教する癖に、偶に正論を言ったら首を傾げてさ」
独り言を続けながら、西日も立ち退く頃にはホテルへ到着した。
馴れない鍵をどうにか片手で開けた萱島は、重いドアを退けて2人の仮住まいへと踏み入れる。
今日の太陽が帰った世界はグレーで、残念ながら気の利いた色味は無い。
リビングの椅子で漸く落ち着くと、萱島はスーパーの袋を投げ出して鈍色の天井をプラネタリウムのように眺めた。
”貴方は誓いますか?”
”誓います”
そんな定型文を交わして事を終えたのも、確か丁度一年前。
真っ白い教会。蕩けるステンドグラス。映画の最後の一幕のようなアルカディア。
エンドロール手前で君はわざわざ口を開きなおして、傍目にも痛いほど手を握りながら答える。
光景ならずっと覚えている。
次第に日本のべたつく春が終わろうと、時が去って出会った会社すら消えたとしても。
君は映像に居ながら、今になって気付くのは、それが幸せなのかどうかは記憶でなく現在の感覚に基づくということだ。
「可笑しいよね和泉、何で君は此処に居ないんだろう」
教会の文言が寒々しく、膝を抱える萱島は思わず苦笑いする。
「何処に行ったんだろう、何で君は、たった1年前の約束を捨てるんだろう」
机上には簡単すぎる走り書き。つまらない一言。
「…随分都合のいい言葉だけでね」
君があの時言った、誓いますという言葉を反芻したら、それだけで幸せになれると思っていた。
そんな簡単な摂理はない。
昔綺麗なお日様の光を閉じ込めたくて、掌に掬おうとしては失敗したのと同じことだ。
幸せなんて言葉や物理で閉じ込められない。
こんな風に一瞬で立ち退いて、跡形もなく消え去ってしまう。
必ず戻ります。愛してる。
焦燥に駆られ、萱島は立ち上がって掠れたメモを掴み取る。
握りしめてゴミ箱へ捨てると、机の上には何もない。妙に遠い抽象画のような空だけが、先の天候も分からない闇を視界へばら撒いていた。
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