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chapter.7-50

…―――― あれは。 あれは、いつの話だろう。 イラクへ出発する前、もっと北にある基地で遠征訓練の最中。矢張り連日続く不穏なニュースにピリピリしながら、誰もが出立の命令を今か今かと待ち構えていた頃。 「バーナビー、お前の推薦書を書いたぞ」 久し振りに晴れた日の夕方。駐屯所でCQB訓練が終わったのち、寝屋川は彼を呼び止めて声を掛けていた。 青年はその頃、幾つだったか。多分学生に毛が生えた程度で、昼にはバーガーを三段重ねにして食べる齢だった。 「俺のですか?」 「お前のだ」 へらへら笑っていた顔が止まり、押し付けられた書面を上から下に読む。 「中隊の先任指揮官に…」 概要を読み終え、上官の顔と書面とを行き来した。 その余りに複雑な表情へ寝屋川は眉を顰め、つい逃げ道というか選択肢を投げていた。 「嫌か?辞退は可能だが、給料が上がるぞ」 「嫌?違う違う、そうでなく、sir…!見て下さいよこの推薦文、10行も使って俺の事がみっちりと褒めてありますが!」 「当たり前だ」 何を騒いでいるんだコイツは。 呆れたが、確かに自分が長々と言葉をこね回して部下を褒めた例が無い。 飢えているのだろうか。割と鞭を多用していた自覚がある分、寝屋川は黙って部下が沈静化するのを待った。 「これ俺が貰って良いんですよね?」 「馬鹿か、大隊に提出する」 「大隊に出したら俺の手元に残らないじゃないですか!」 「…じゃあコピーを取れ、取ったらさっさと返せ」 やった!お小遣いを貰った子供の様にバーナビーは駆け出し、大事な書類を手に姿を消してしまった。 推薦など早まっただろうか。 寝屋川は首を回し、隣に突っ立っていたウッドへ意見を仰ぐ。 部下は何やら満足そうに頷いているだけだ。嘆息。結局推薦書が帰って来たのは後日で、提出は2日遅れになっていた。 で、バーナビーの騒ぎ様は、その一時で終わらなかったのだ。 彼はキャンプに帰るなり同僚から上司から、道ですれ違った全然知らない他隊の人間やら、「寝屋川大尉に推薦書を書いて貰った」と言いふらして回った。 しかも「先任曹長に昇進するかも」でなく、「推薦書を書いて貰った」を主題に吹聴した。 お陰で寝屋川の居る中隊指揮所の前に、連日どうでもいい用件の順番待ちが出来てしまった。 用件は「推薦書を書いて欲しい」かと思えば、「自分も評価が欲しい」という小学生みたいなもので、その場で追い返そうが連中はしつこかった。

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