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第23話

この事態をBlue Roseの幹部達に告げた方がいい事はわかっている。 だが、神にだけは告げたくない。もし告げれば、神の事だ、絶対に一人では行動させてくれなくなるだろう。それだけは困る。 神の那智に対する過保護さは、もはや疑いようがない事実だ。それは普段は表面に表れないまでも、何かが起きた時に一気に噴出する。 そして今回の事は、神のその感情を噴出させるには充分な事態だ。 だからといって、告げずに黙っている事は絶対に出来ない。 …そう、自分の中では既に、しなければならない行動はわかっている。ただ、子供のようにイヤだイヤだと駄々をこねているだけだ。 神の自分に対する感情に嫌悪はない。それどころか、神に対して憧れともつかない好意的な感情を持っている分だけ、大切にされている事には嬉しさを感じるのが正直なところ。 だが嬉しさを感じるのは、“特に問題のない余裕のある時”だけの話だ。 これから抗争が始まるというのに、自分だけが丁寧に箱の中にしまわれているわけにはいかない。 暫くしてから、余計な感情を切り捨てるようにもう一度だけ溜息を吐いた那智は、そろそろ帰ろうと、組んでいた腕を解いて教室の後方にある扉へ視線を向けた。その瞬間、 ドクン …な…んで…。 心臓の鼓動が大きく跳ね上がった。 那智が気づいた事を見てとった人物は、それまで全く感じさせなかった気配を強烈にまき散らしながらゆっくりと近づいてくる。 その鋭く冷たい眼差しは、那智だけをヒタと見据えて逸らされる事はない。 …いつのまに…ここへ。 内心の驚愕を表情に出さないまでも、無意識に息を飲んだ。 人の気配には敏感なはずなのに、この人物にはそれが通用しなかった。 オレンジから紺碧へと変わっていく空と同様、教室内も薄暗さを増してきている。 その中で見えるのは、相手の背の高さと眼光の鋭さ、そして、静廉高校のものであるチャコールグレーの制服。 「…蓮…。どうしてここに」 もう逃れることはできない。 腹をくくった那智が問いかけると、Moonlessの筆頭である蓮は、那智から数歩離れただけの場所で足を止めた。 その瞳に太陽の最後の光が映っているのにも関わらず、那智を見る眼差しには闇が濃い。 「どうした。もう隠す事はやめたのか」 相変わらずの無機質な口調。 いつかまた接触してくるだろうとは思っていたが、…まさかこんなに早く接触してくるとは…。さすがに、那智にも想定外だった。 だが、ここで反応を間違えてはいけない。 いくらなんでも、既に那智が自分の面がわれている事を知っているとは思うまい。 この前までは知らぬ存ぜぬを通してきた那智の対応の変化に、異変を感じてもらっては困る。 まだ駒の存在に気付かれるわけにはいかない。 そこで考えられるもう一つの事。 ……もしかしたら、蓮の駒がこちらに潜り込んでいる可能性も無きにしも非ず。 だからこそ、こんなにも堂々と藍学に潜り込めているのかもしれない。 …まぁこれは憶測に過ぎないが…。 フッと嘆息した那智は、背後の窓ガラスに背を預けた。 「Vercheの追放状は届きましたね?これで確実に派閥抗争が始まる。いまさら貴方に取り繕っても無意味だ。どうせ俺の事は調べていたんでしょう?」 その言葉に、納得出来たのか出来なかったのか、蓮はただ那智の顔を見つめるだけで、何も返事をしない。 よく吠える人間ほど扱いが楽。それは逆に、反応が無い人間ほど扱いが難しいという事。 蓮は完全に後者だ。 「それで、わざわざここまで来た理由はなんですか?…用が無いなら、俺はもう帰りたいんですけど」 そう言いながら、那智は歩きだしていた。窓際から三列目の後ろから二番目の席。そこに通学用のスポーツバッグが置いてある。 蓮と二人きりでの直接対話。この滅多にない美味しいシチュエーションに惹かれないわけじゃない。だが、ハイリスクを負う危険性を考えると、ここは大人しく引き下がった方がいい。 「俺が怖いか」 「……え?」 蓮の横を通り過ぎた直後に聞こえた挑発的な言葉。 相手の意図がわかっていても、これには足を止めずにいられなかった。 斜め後ろを振り返ると、蓮はその口元に酷薄さを感じさせる笑みを浮かべて那智を見ていた。 挑発とわかっていて乗るほど酔狂な性質(たち)ではない。 だが、心の片隅では、この挑発に乗りたくて疼く感情が顔を覗かせているのも事実。 無感情にも見えるその鋼鉄の胸の内を揺すぶってみたい。苛立たせてみたい。 そんな嗜虐的な闘争心が湧き起こる。 「…そうだと答えたらどうします?」 しかし今の状況で乗る訳にはいかないだろう。 改めて蓮に向きなおり、冷静に覚めていく口調で問い返す。 その態度が気に入らなかったのか、蓮はフッと鼻先で笑うだけ。 これはこれで馬鹿にされているようで面白くはない。 いったい蓮の目的はなんだ。わざわざここまで入り込んできたんだ、何かあるはずだ。 今日は早いうちからTrinityに向かうと神に告げてあるだけに、そろそろ向かわなければおかしいと思われるだろう。 「話がないなら俺は帰ります」 蓮の行動に興味はあるが、無駄な時間を有意義だと感じられるような仲ではない。 ただの戯れに付き合う必要などない。 那智は今度こそ蓮に背を向けて歩きだした。自分の席を通り過ぎながら、置いてあったバッグを掴み取る。…だが、 ドサッ 掴んだはずのバッグは、すぐに床に落ちる事になった。 背後から伸びてきた手。強く掴まれた二の腕。 全く容赦のないその力に、那智の眉間に皺が寄る。そして口元から零れるのは、溜息と多少の緊張感をはらんだ声。 「…本当に、なんなんですか」 相手の顔を見ないまま、疲れた口調で呟いた。 普段は校舎内をウロついている教師達が、こんな時ばかりは姿を見せない。不法侵入者がいるっていうのに、呑気なものだ。 「行くぞ」 「はい?…って、何を!」 グイっと引き寄せられた瞬間、耳元で低く囁かれた言葉に意味が分からず顔を上げたけれど、その時にはもうすでに蓮は那智の腕を掴んだまま歩きだしていた。 あまりに強引なその行動に抵抗しようとするも、腕力の差は歴然。 いったい何なんだ…と蓮の行動に驚きと焦りを感じつつ、諦めと共に足もとに落ちたスポーツバッグを拾って歩き出した。 そのまま有無を言わさず教室…強いては校舎を出る事になってしまった。 周囲に人の目がある状態では蹴るわけにもいかず、大人しく…とはいかないまでも強制的に連れて行かれた場所は、藍学を出て数分ほど歩いた所にある寂れた公園。 陽が落ちたせいか、遊ぶ子供の姿は見られない。閑散とした公園。 周囲を木が覆っているため、道路からの視界は遮られている。一種の隔離された空間。 黄色とピンク色に塗装されたジャングルジムの前に連れてこられた時点で、ようやく腕を解き放たれた。 今まで掴まれていた二の腕が、離された事によって血の巡りがよくなったのか、ジンジンと嫌な感覚を訴えてくる。 どれだけ強い力で掴まれていたのか。 那智でさえ拘束を振り解けなかったのだから、その力加減は推して計り知れる。 ここへ来るまでの間に、制服のポケットに入れてある携帯が二回ほど振動していた。 Blue Roseの誰かだと思われるが、神ではない事を祈るのみ。 早く連絡を返さなければ、厄介な事になりそうだ。 両手をあける為に、邪魔になる通学用バッグは地面に落として蓮に向きなおった。 「用件をどうぞ」 「用はない。改めてお前の顔を見に来ただけだ」 本当か嘘か判断のつきづらい蓮の言葉。ただ、その顔に浮かぶ表情が明らかに那智を嘲笑しているのがわかる。 さすがにイラつく。 他校に不法侵入してまで人を拉致ったあげく、特に用件はないと嘲笑う。 ずいぶんと舐められたものだ。 「なんだ、それだけの理由では不服か。俺が直々に挨拶に来たとでも言って欲しいのか?」 「………」 普通なら、ただ喧嘩を売られているだけと思えるが、相手は蓮だ。こんな事をする意味が分からない。 こちらを挑発して何を狙う? 冷静に考える反面、腹の底でグツリと煮えたぎるマグマは消えない。 どうでもいい人間に何を言われてもここまでにはならない。 蓮だからだ。 だからこそ、今ここで二人きりで対峙するのは危険。 こみ上げる熱を溜息と共に吐き出す。 「……それだけなら俺は帰ります」 感情を抑え込んでいるせいで必要以上に抑揚の無くなった口調で告げた那智は、地面に落としたバッグに手を伸ばした。 と同時に右肩を凄い力で掴まれ、流れるような動作で顎を掴み上げられる。 「ッ…!」 背の高い相手を見るように強引に仰向けさせられた状態に、那智が苦しげに呻く。 眉を寄せたその表情を見た蓮は、またも鼻先でフッと笑った。 「お前一人では何も出来ない事を覚えておけ。ゼロの至宝だのなんだのと持て囃されているが…、俺は神よりもお前の方が気に入らない」 「貴方に好かれようなんて思ってな…ッ…」 視界を覆うように近づいた鋭い瞳。 まるでメデューサに見つめられて石化した人間の如く、一瞬だけ固まった那智の隙を狙ったように塞がれた唇。 冷たい双眸と対を為すように熱のないひんやりとした蓮の唇が、最初は軽く、そして那智が離れようと抵抗をした途端に貪りつくすように激しく食らいついてきた。 「…ン…っ…」 強引に口腔内に割って入った蓮の舌が、那智の意志など捩じ伏せようとでもいうように傍若無人に動き回る。 これは口付けなんて甘いものじゃない。 蓮の優位を見せつける為の暴力と同じ。殴るよりももっと男のプライドを叩き潰す行為。 いつの間にか顎先にあった指は離され、代わりに制服の襟元を掴まれ、後頭部を押さえつけられる。 「…っ…ぅ…」 荒々しさに声が零れる。呼吸が出来ない。 襟元を掴んでいる蓮の手首を最大の力で締め付けるように握り潰す。 握りしめられている手首は相当痛いはずなのに、それを全く感じさせない相手の無反応が腹立たくてしょうがない。 何かしてやりたくても、これ以上の反抗は蓮に更なる火をつけるだけ。 あまりに深く食らい付かれている為に、時々ガチガチとお互いの歯が当たる。徐々に口の中に広がる鉄臭さが、どちらかの唇が切れただろう事を教えていた。 気付けば背がジャングルジムに押しつけられていて、まるで覆いかぶさるように蓮の体が密着してくる。 暗くなって静寂の満ちる公園の中に響くのは、荒い呼吸音と砂を踏みしめる音だけ。 酸素が足りなくてクラクラしてくる。 この茶番はいつまで続くのか。 「…ッ…ハ…ぁ…」 解放の時は突然訪れた。 濡れた唇に触れた風を冷たく感じた事で、ようやく蓮が離れた事を知る。 ジャングルジムに寄りかかったまま崩れそうになる足元を気力で持ちこたえ、両足でしっかり地面を踏みしめ、乱れた襟元を整えてから荒い呼吸のまま手の甲でグイっと口元を拭った。 ピリッと痛む感覚に、切れたのはこちらの唇か…と溜息が零れる。 「いずれお前をその位置から引き摺り下ろしてやる。それまでせいぜい足掻くことだな」 「…引きずり下ろせるものならやってみればいい。俺はそう簡単に落とされるつもりはない」 お互いに一歩も引かぬ睨み合い。心なしか、公園内の空気全てが張りつめた緊迫感を伴っているよう。 そして、先に動いたのは蓮だった。 最後に鋭く一瞥を投げかけ、何も言わずに踵を返して歩き出す。 こちらに背を向けているのにも関わらずなんの警戒心も見せない事が、自信の表れ。 いや、もしかすると警戒はしていたのかもしれない。だが、那智にそれが伝わる事はなかった。

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