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第24話

「あ、那智さんだ!どこ行ってたんですか!?今日は学校から直接来るって言ってたのに、連絡も取れないからみんな心配してたんですよ!」 Trinityのドアをくぐって階段を降りきった瞬間、和真の声が耳に飛び込んできた。 見渡すと、カウンターに直哉がいるだけで他の幹部の姿は見当たらない。 この時間ではもう街へと出ているのだろう。 22時。 蓮との一件で沸騰した体内のアドレナリンが消えるのを待ち、更に、唇の切れた個所から赤みが引くのを待っていたらこんな時間になってしまった。 傷は消せないが、赤味が引くだけでだいぶ見た目は変わる。 連絡をしたくとも、神には声だけで異変を察知されるだろう事を思えば、それも出来なかった。 かと言って、早く来ると言い切ったはずが無断でこんな時間になったという状況、もうそれだけでじゅうぶんな問題行動。 どっちにしろ、最悪な事に変わりはない。 厄介な行動を取ってくれた蓮に悪態を吐きたい気持ちのまま、和真と直哉に軽く言葉をかけて奥の部屋へ向かった。 「神、入るよ」 いつものように真っ黒のドアを軽くノックし、返ってきたためしの無い返事を待たずに部屋へ足を踏み入れた。 いつも神がいるはずのソファに視線を向ける、が。 「…神?」 そこに神の姿はなかった。出掛けたなどと和真は言っていなかった。という事はここにいるはず。 部屋に入って数歩進んだところで足を止めたまま、グルリと視線を巡らす。 その瞬間、斜め後ろから強烈な怒気が放たれた事に気が付いた那智は、素早く背後を振り向いた。 場所が場所なだけに無防備な状態だったところへ浴びせられたそれに、心臓の鼓動が一際大きく跳ね上がる。 振り向いた先には、最初からそこにいたのか、探していた人物がドアの横の壁に腕を組んで寄り掛かっている姿があった。 目が閉じられている為に一見何もないように思えるが、肌にビリビリと伝わるこの圧迫的な気からは、神が本気で怒っている事がわかる。 「連絡も寄越さず携帯にも出ない。………どこで何をしてた」 「………」 静かだからこそ危険な口調。激情を堪えているからこその抑揚の無さ。 神の目が開かれていない事だけが唯一の救い。その間に動揺と言う名の感情を押し殺す。 蓮との事を話すべきか、それとも適当に誤魔化すか…、いや、神に誤魔化しは通用しない。1つ嘘を付けば、そこへ更に2つの嘘を重ねる事になるだろう。嘘とはそういうもの。 1つの嘘が、最終的には膨大な嘘を重ねる事になり、結果、背負いきれなくなる。 その精神的な重みは、物理的な重みの比ではない。 一度目を閉じて俯いた那智は、正直に告げる事を選んで短くため息吐いた。そして神に告げようと顔を上げた。 「…ッ…」 いつの間に…。 壁際にいたはずの相手が、気づけば目の前に立ち、那智の顔を見下ろしていた。その眼差しは冷たく、刃のような一筋の強い光が灯っている。 顎先を掴まれ、状況を説明しようとして開きかけた唇に神の親指が当てられる。 強く押されたそこにピリっとした痛みが走った。夕方に蓮の捩じ伏せによって付けられた傷だ。 「これはどうした。…殴られた傷じゃないな…」 …最悪だ…。蓮に対する苛立ちが再燃する。本当になんと余計なことをしてくれたのか。 全てを説明した後に傷を晒した場合と、何の説明もないまま先に傷を晒した場合では、断然後者の方が悪手だ。 ここに来る前に携帯で話しておけば良かった。 後悔先に立たずとはまさにこれ。 最近はこんな風に後手後手に回ってばかりいる自分がいる。 少しばかり気が緩んでいるのだろうか…。情けなくて腹立たしい事この上ない。 「…放課後、蓮が藍学に来た」 顎を掴まれたままそう告げると、目の前に立つ神の片眉が少しだけ吊り上がった。 無言で次を促される。 「近くの公園に連れ出されて、顔を見に来たと言われた」 そこまで言った瞬間、唇の傷を親指でグッと強く押された。嫌な痛みに思わず眉を顰める。 この傷の事を誤魔化すな。神の鋭い瞳がそう言っているのがわかる。 徐々に濃くなる部屋の空気。それは、神の感情が昂り始めている証拠。たぶん、この傷がどうして出来たのか、もうわかっているのだろう。 「俺の事を捩じ伏せるのが目的で、それ以外の意味はないから大丈夫。犬に噛み付かれたようなものだから、俺は全然気にしてない」 「…お前、当分の間は外に出るな」 「え?」 言葉と同時に顎から手が外されたかと思えば、今度はいきなり腕を掴まれた。そして部屋の外に向かって歩き出す。もちろん那智も一緒に引きずられて歩き出す。 どうしてなのか、今日はこんな事ばかりだ。 「神!ちょっと待ってよ、どこに…」 「黙れ」 「………」 振り向きもせずに淡々と返してくる神に、今は何を言っても聞いてもらえないだろう…と、諦めて大人しく従う事にした。 そのままTrinityの店内を素通りし、驚いたような顔をしている和真と直哉に何も言えないまま、外へ連れ出された。 辿り着いた場所がどこかわかった時点で、何が何でも抵抗しておくべきだった…と那智は後悔したが、もうどうにもならない。 Trinityを出て神のバイクに乗せられ、連れてこられた場所。 「…神、俺は、」 「入れ」 「………」 中へ入る事に抵抗しようとしたが、有無を言わさず背を押されて玄関へ足を踏み入れる。背後で扉の閉まる音と鍵がかけられる音が聞こえた。 ここには何度か来た事がある。神が一人で住んでいるマンションの部屋だ。 新しい1LDKのこの部屋は、物があまりないせいか生活感が感じられない。 靴を脱いで短い廊下を通りリビングに入る。 この前来た時と同様、やはりフローリングの床の上には、黒のローソファーと黒のローテーブル。そしてテレビとオーディオしかなかった。 もう一部屋の寝室の方にはクローゼットや本棚などがあったけれど、リビングは相変わらず広々としている。 この部屋に入った時から、神の気配が穏やかになっている事に気付いた。安堵に肩の力が抜ける。 「…ここに俺を連れてきた意味は?」 だが、怒りが治まったと思ったのは勘違いだったのか、振り向いてそう聞いた那智に、神は僅かながらに嗜虐の色を瞳に浮かべて信じられない言葉を放った。 「当分の間ここから出るな」 「………神…」 「お前は俺のものだという事を忘れているらしい。それを思い出すまでここから出すつもりはない」 「神!」 神が有言実行の男だという事は身に染みてわかっている。だからこそ、本当にここから出られない事を理解した那智は、焦りに瞳を鋭くした。 「そんな事してる場合じゃないだろ!Vercheを潰して蓮達とも戦わなければいけないこんな時に、俺を閉じ込めてどうするんだよ!謙遜するつもりはないからハッキリ言うけど、俺はこの抗争に必要不可欠な存在のはずだ!」 状況が状況なだけに、神のこの暴挙を許すわけにはいかない。 あまり激高する事のない那智だが、今ばかりは声を荒げて神の襟元を片手でグッと掴んだ。 「全てが片付けば神の言う通りにする!けど、今は聞けない!」 掴んだまま神を引き寄せ、間近で睨み上げながら言いきった那智に、それでも神の返答は「否」だった。 「指示はここからでも出せる、問題はない。それとも、意地でも抵抗するか?もしそうなら、手錠で繋いででもお前をここから出さないようにするだけだ。……どうする?」 「………」 悔しさに噛みしめた歯がギシリと音を鳴らす。手錠で繋がれるなんて冗談じゃない。 それならまだこの部屋の中だけでも自由がある方がいい。 暫く黙っていた那智は、深い溜息を吐いた。そして神の襟元から手を離す。 「…いつまで」 「お前に自覚が戻るまで、だな」 「自覚はある。しっかり。…けど、どうにも出来ない時だってある」 「それを許す俺だと思うか?那智」 「………」 思わない。 思わないし、普段だったら別にそれを苦痛には感じない。那智が神のものだという事は、Blue Roseに入った時から当たり前に決まっている事。 …神の気がおさまるまでここにいるしかない、か。 もう抵抗はしない、と相手に伝わるようにローソファーに腰をおろした那智は、制服のポケットから携帯を取り出した。 「……和真に俺のパソコンを持ってくるように頼むくらいはいいよね」 「あぁ、構わない」 那智がここから逃げ出さない事がわかったのか、神は先程までの鋭い双眸を緩めて那智の横に座った。 そしていつものように、テーブルの上に無造作に置いてあった煙草のケースから一本抜き取り、口端に咥える。が、すぐに離した。 火の点いてないそれを指に挟み持ち、那智の頬に片手を当てる。 「…なに?」 その問いに答えはなく、静かにゆっくりと近づいてくる神の顔。僅かに顔が傾けられ、お互いの吐息が触れ合い、そして、 熱をはらんだ神の唇が、那智のそれを優しく覆いつくした。

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