26 / 63

第25話

†  †  †  † 「宗司か?」 『どちらさんですか~』 携帯の向こう側から、気の抜けるような、それでも警戒心の垣間見える声が聞こえてきた。 部屋のソファに座った態勢でフッと笑いを零した蘭は、次いであまり大きくない声で自分の名を名乗った。その途端に聞こえた息を飲むような空気に堪え切れず、クククっと喉奥で笑い声をあげる。 携帯の向こう側の相手は、なんで蘭が携帯番号を知ってるんだ、とでも思っているのだろう。 いつもであれば、ここで遠慮なくからかって遊ぶところだが、今はそんな悠長な事をしている時間はない。 足を組みなおし、先程よりも幾分か強い口調で本題を告げた。 「那智はどこだ」 『…あ、え?那智、ですか?』 意外な質問だったのか、宗司が戸惑った声をあげる。 「あぁ、一昨日から連絡が取れないんだよ。俺からの連絡をアイツが無視するなんてありえねぇからな。何かあったんだろ?」 『…いえ…、特別に何かあったわけじゃないですけど、那智はいま裏で動いているから少しの間Trinityには来ないと、神が言ってました』 「へぇ…、神が、ねぇ…」 なんとなくわかった。 相変わらずだな。…いや、以前よりも酷くなってるか…。 神と那智を脳裏に思い浮かべながら苦笑いを浮かべた蘭は、指先で弄んでいた火の点いていない煙草を口端に咥えさせた。 「よくわかった。ありがとな」 『いえ』 最後に、『失礼します』という宗司の声を聞いてから通話を終えると、何かを考えるように目を閉じ、その数分後、ソファから立ち上がった。そして、 「…さて…、この貸しは高くつくぜ、那智」 口端を引き上げてニヤリと笑い、それはもう通常の人間では持ち得ないような凶悪な口調でそう呟いた。 †  †  †  † 明るい日差しが、閉じた瞼の内側まで差しこんでくる。 ゆっくりと目を開いて視線を巡らせた那智は、自分がリビングのソファに寝転がっている事を知った。 …そうか、4時頃までここでパソコンをいじったまま…。 寝像が良かったのか、睡魔に侵される直前まで弄っていたノートパソコンがいまだ腹の上に乗っている。 どおりで重苦しかったわけだ。 時計の無いこの部屋で時間を確かめるには、自分の携帯か、もしくはパソコンの時計を見るしかない。 人の気配がしないリビングの中、気だるげな仕草で前髪をかき上げた那智は、腹の上のパソコンを落とさないようにゆっくり起きあがると、電源ボタンに軽く触れてスタンバイ状態を解除した。 「…8時半、か…」 神の姿がない訳がわかった。学校に行ったのだろう。 金曜の夜に拉致られ、土日は学校が休み。だから問題はなかった。だが今日は月曜日だ。それを思えば、さすがに危機感を覚える。 …いったい神はいつまで俺をここに閉じ込めておく気なのか。 両親は来月末までニューヨークに行っているから、家に帰らなくても問題は無い。だが、学校は別だ。1日だけならともかく、それ以上の無断欠席をすれば確実に怪しまれる。 「頭が痛い事だらけだな、ホントに…」 そう呟いた那智は、とりあえずパソコンをテーブルの上に戻した。 なんだかんだとやるべき事を片付けている内に、時刻はもう16時半を示していた。 学校からまっすぐに戻ってくるのなら、そろそろ神が帰ってくるだろう。 この部屋にいる間は、神の服を適当に着ていいと言われて遠慮なくそうしているものの、いかんせん体格の…というよりは身長の差のせいで、ジーンズの裾は長いしシャツの袖も長いし…。 パソコンを操作するに邪魔になった袖を適当に捲くっていると、玄関の方からカチャリと音が聞こえてきた。 どうやら予想通り、神が帰ってきたらしい。 だからといって特に気にする事もない那智は、リビングのソファに座ったまま、足の上に乗せているパソコンに目を向けた。 「何か進展は?」 「悪い方の進展はあった」 那智の返事に、私服姿の神はそのままソファの横に立ってパソコンを覗き込んできた。 「何があった」 「Vercheが派手に動いてくれたおかげで、そろそろパンダに乗ったオジサン達に目を付けられそうな雰囲気」 途端にチッと舌打ちした神に、ようやく那智が視線を向けた。 「行動を早めないと、命取りになりかねない」 それだけを言って、またパソコンに視線を落とす。 素早くキー操作をした後に画面に現れたのは、ネット上での誰かのやりとりだった。 『地下の様子がおかしい。慌てる必要はないが、潜り込んで調査する必要がある』 『マルボウが入り込んでるという噂も耳にする。だがあそこは特殊地帯だ、あまり派手に動くな』 『了解』 そのやりとりを神が読み終わった瞬間、すぐに画面は切り替わり、いくつもの複雑な操作のあとに通常の画面に戻った。 「今のは?」 「潜り専門の刑事のやりとり。…みんながVercheとそのバックについて調べている間、俺はこっちを見張ってた。ビンゴってとこかな」 「向こうのサーバーに潜り込んだのか」 「いくつものアクセスポイントを串刺ししたから、足取りは途中で消え失せる。他の足跡に踏みつぶされてね」 ハッキングの成功。こんな時ばかりは至極楽しそうな表情を浮かべる那智に、神の表情も緩む。 一見、非合法な事に関わらないように見えて、時としてこんな風に堂々と違法を働く。そんな那智のギャップが、神の感情を心地良いくらいに揺さぶる。 「…そろそろ詰めるか。遊ばせすぎたな」 「その方がいいと思う」 溜息混じりに呟いた那智の頭を、横に立っていた神が胸元に抱きよせた。そして髪に軽く唇を落とす。 「…那智」 「なに?」 「お前をここから出すつもりがなくなったと言ったら、どうする?」 「………」 那智の体が身動きを止めた。 頭と肩を抱き寄せてくる神の腕はそのままに、「本気で言ってる?」と問うと、当てられた胸元から直接響くような低い声で、「どうだろうな」と返される。 たぶん、まだ本気で言っているわけではない。だが、これがいつ本気に変わるかはわからない。 「…神」 「なんだ」 「…いや…、なんでもない」 それはやめてほしい。 そう言おうとして、結局胸の内に飲み込む。何故って…、神の言葉に危機感を覚えると同時に、微かな喜びも感じてしまった自分がいたから、だ。 …どうかしてるな…。 自分の感情が自分でわからない。それが気持ち悪い。 このまま神の体温を感じていたらもっとおかしな気持ちが込み上げてきそうになる、と妙な焦燥感におそわれた那智は、自分を抱きしめてくる神の腕から静かに身を引いた。 その時、部屋の中に来客を知らせるチャイムの音が鳴り響いた。 これは非常に珍しい事。神のプライベートなこの部屋を訪れる人物など、片手で足りるくらいの数しかいない。 …誰だ? 僅かな警戒心と共に双眸を細めた那智とは逆に、神はいつもと変わらぬ態度で玄関へと向かった。 そして、もう少し警戒した方がいいんじゃないか?と那智が思うくらいに、平然とそのドアを開ける。 これにはさすがにドアの向こう側にる相手も驚いたらしい。「オイオイ…」という呆れた声が聞こえてきた。 …この声は…。 聞き覚えのある あまりにも意外な人物の声に、ソファに座ったままの那智が目を瞠る。 「…蘭さん?」 「その声は那智か。やっぱりここにいたな」 壁に遮られて姿は見えないまでも、声だけは聞こえる。 「何しに来たんですか」 冷めた声で口を挟んだ神に、蘭の視線が流れるように向けられた。 それは、たった今のんきに那智と言葉を交わしていた人物とは思えない程の厳しい眼差し。 那智に聞こえないようにという配慮なのか、開けたドア枠に背を寄りかからせた蘭は、低い声を更に潜めて言葉を放った。 「…どういうつもりだ」 向けられる強い眼差し。それでも神は怯むことなくその目を見返す。 「那智と俺との問題です」 「口を挟むなって?」 「………」 神よりも更に高い位置から見下ろしてくる蘭の鋭い双眸に、微かに苛立たしげな色が浮かび上がった。 「那智の意志でこうなっているのなら俺は何も言わない。けどな、今回のは違うだろ」 「……」 蘭の追及に、神は無表情で黙ったまま。それは、蘭の言う事など聞く気が無いという事を表している。 最初に口にした通り、那智と自分の問題に他人が口を挟むな、と言いたいのだろう。 確かに、那智自身に危険があるわけではない。だが、部屋に閉じ込めて周囲との関係を遮断していいわけじゃない。 無表情の神を見つめた蘭は、暫くしてから短く溜息を吐いた。 「…神、もう少し頭を冷やせ。お前が那智に関してだけは感情を抑えられない事は知っている。そこが唯一見せるお前の年齢相応な部分だからな。…なんせ、それ以外は大人顔負けだ」 そこまで言った蘭は、フと苦笑いを浮かべた。 神の頭のキレ具合と感情の抑制度は、その年齢においては群を抜いている。…いや、大人でもここまで抑制できる奴は少ないだろう。 その反面、一度執着を持った相手の事はとことん束縛しようとする。 ようするに那智の事だ。 「…だが、那智の意思は尊重しろ。アイツがイヤだと言ったら無理強いはするな。アイツはお前のモノじゃない。アイツは“那智”という一人の人間だ。そこの部分をお前はわかっているようでわかっていない」 顔から笑みを消し去った蘭は、本来の獰猛さを微かに覗かせた低い声を放った。もちろんそれは那智までは聞こえない。 暫く黙っていた神は、蘭の瞳を見つめたまま気だるげな動作で首を横に振った。 「アイツは俺のものです。アンタが理解しようがしまいが、その部分は譲れない」 その答えに、蘭の口から「チッ」っと舌打ちが零れた。駄々を捏ねて言う事を聞かない子供に対して苛立ちを感じるような、小さな不快感。 蘭は、那智はもちろんの事、神の事も可愛がっている。それは確かだ。けれど、那智に対するこの扱いを容認する事はできない。 寄りかかっていたドア枠からゆっくりと身を起こすと、途端に神が警戒心を露わにする。いい反応だ。蘭の喉奥からククッと笑いが零れ出た。 「残念だな、神。今回はお前の言い分は聞いてやれない。那智をここから連れ出す」 2人の間の空気が一気に硬化した。 部屋へ入ろうと足を踏み出す蘭を阻止する為に、神がその肩を鷲掴む。それでも強引に押し入ってくる蘭に、さすがの神も拳を固めた。その一瞬後、 「…ッ…ぐ…!」 片膝を折って崩れ落ちたのは神の方だった。 拳を打ち込もうとするより先に、蘭の膝が素早く神の鳩尾に入り、見事としかいいようがないくらい綺麗に急所を狙われた。 一瞬息が出来なくなった神は、それでも意識を失って倒れこむような無様な姿は見せない。床に片膝を着いて腹を押さえ、呼吸が戻るまで耐え忍ぶ。 「神、お前は強い。それは認める。だがな、俺に勝てるとは思うなよ」 クラリと眩暈のする意識の中で、そんな蘭の言葉だけがやけに鮮明に耳に届く。 自分がまだまだ力のないガキだと思い知らされた神は、膝を着いたままグッと歯を食いしばって拳を壁に叩きつけた。

ともだちにシェアしよう!