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第26話
「すみません。手を煩わせるつもりはなかったんですが…」
「いや、大した事じゃねぇよ。気にすんな」
あの後、蘭によって部屋から連れ出された那智は、玄関横の壁に寄りかかって立っていた神と言葉を交わす事なく外に出る事となった。
腕を組んで壁に寄りかかり、目を閉じて何の反応も示さなかった神。
なんとなくその胸の内がわかった那智は、自分からも声をかけようとはしなかった。
マンションの前に止められていた蘭の車、黒のレクサス。それに乗り込んだ二人は、とりあえず行き先も決めずにその場から移動する事にした。
2~3分程走って小さな交差点の赤信号で止まり、そこでようやく蘭が目的地を訪ねる。どうやら今日はこのまま運転手になってくれるらしい。那智にしてみれば有難い事。
「いえ、今日はこのまま家に戻ります」
「わかった」
家の場所を教えた覚えはないけれど、聞いてこないという事は知っているのだろう。
相変わらず得体の知れない人だ。
「何があってこうなったのか今回の理由は聞かないが、これだけは言っておく。アイツをあまり甘やかすな。お前の事となるとアイツは加減を知らない。それはお前がいちばんわかってるだろ、那智」
「…すみません」
いつになく厳しい蘭の言葉に、自然と那智の声も堅くなる。
どうにかしてでも神の拘束から逃れる術はあった。それをしなかった那智にも非がある事を、言外に蘭は言っている。
「ゼロのトップ二人がそんな事だと、いつか足元を掬われるぞ。あの巨大派閥を束ねているという自覚があるなら、甘い考えは捨てろ。頂点に立つ事がどれほどの事か、…遊びだと考えているなら今すぐに足を洗うんだな。下につく人間の迷惑を考えろ」
「………はい。すみませんでした」
蘭の言葉は、いつの間にか自分の中にあった慢心や驕りといったものを思いっきり突き刺さすものだった。
まだBlue Roseがここまでの派閥になる前は、もっと必死だった。気を抜くなんて事もしなかったし、まぁいいか、と妥協する事もなかった。
それが、気づけばMoonlessと共に裏高楼街の二大巨頭と称されるようになって、抗争も減り、自分達が一番だと、いつの間にかナメてかかっていた部分がある事を痛いくらいに気付かされた。
羞恥に顔が熱くなる。この裏高楼街の派閥世界を作り上げたと言っても過言ではない蘭に指摘され、自分の馬鹿さ加減が情けなくて悔しくて…。顔を上げていられない。
目を閉じて俯き、己の内で荒れる感情を堪えていると、不意に頭に暖かな重みが乗せられた。
ハッと瞼を開いて顔を上げると、隣から蘭の腕が伸ばされていた。
那智の視線が向けられた事がわかったのか、蘭が困ったように苦笑いを浮かべる。
「…そんな顔すんな。別に俺はお前を苛めたいわけでも責めたいわけでもない。お前と神が潰されるのを見たくないからこそ言ってんだ」
「…蘭さん」
いつもの親しみのある声色に戻っていた。それだけで、苦しい程に締め付けられていた心が緩む。
心配しているからこそ厳しい事を言ってくれる。そんな貴重な人が隣にいる。
“甘やかす事”を“大切にする事”と勘違いする人が大勢いる中で、蘭やセイは、那智が間違った方向や自分本位な方向へ向かった時、厳しい言葉でそれを制してくれる。
甘やかしてくれる=大切に思ってくれている。なんて、そんなのは本当に大きな間違いだ。
甘やかして甘やかされて、お互いに良い気分になる事は誰にでもできる。とても楽な事。
でも、それではいずれダメになる。成長もできない。
お互いの関係がぎこちなくなろうとも、嫌われるかもしれないと思っても、本当の意味で相手の事を考えて、厳しかろうがなんだろうがキッチリと正しい方向へ促してくれる。そんな人達が傍にいてくれる事を、那智は心から感謝した。
「…何ニヤけてんだよ、お前は」
「いえ。…蘭さんは、本当に大人だなと思って」
正面を向いたまま答えた那智に、蘭はフっと鼻で笑う。
「こんな大人にはなっちゃダメだぜ?ロクなもんじゃねぇからな」
口端に咥えた煙草に火を点けないまま、そのフィルターを噛んでニヤリと笑う蘭に、那智はただ無言で笑みを返した。
「有難うございました」
「どういたしまして」
辿り着いた那智の家。
車を降りる前に、蘭に向きなおってしっかりと頭を下げた。
それは、送ってくれた事に対する礼だけじゃなく、神の所から連れ出してくれた事、緩んでいた精神に喝を入れたくれた事なども全部含めた、多くの意味がある“礼”だった。
そんな那智の胸の内がわかっているのだろう。蘭はそれをしっかり受け止めてくれた。
そして那智は、車を降りる為にドアに手を伸ばす。その体勢は、蘭に向かって背を見せるという事。
突然、ドアを開けようとした那智の肩を抱き込むように背後から蘭の腕が絡みついた。
耳朶に蘭の唇が微かに触れる。
「ラ…ン…さん?」
「那智…、お前忘れてるだろ」
「何を…」
耳元で響く鼓膜を震わせるような低い蘭の声に、那智の肩が震える。
背後から抱き締められてその体温を感じているにも関わらず、背筋に冷たい物が流れ落ちるような感覚。
「この前の『見返り要求』。まだ返してもらってないだろうが」
「あ…」
言われて思い出した。少し前に、セイの居場所を教えてもらった時の事を。
これを拒否する事は出来ない。自分が出来る範囲の要求ならOKだとハッキリ言いきったのだから。
「思い出したみたいだな。それなら、今日の分も含めて要求させてもらうとするか」
「……無理難題以外の要求でお願いします」
振り向かずにそう言い切ると同時に、腹に片腕が回され、尚更強く抱きしめられた。
運転席側に向かって引き寄せられた為に、降りようとしていた助手席側のドアからは遠ざかる。
「蘭さん」
「お前からのキス、だな」
「え?」
「俺を満足させるまで」
「………」
揶揄と笑いの混じった蘭の声に、熱までもが含まれているのように感じるのは気のせいだろうか。
バリトンの低い声を耳元で囁かれるだけで、背筋に震えが走りそうになる。
密着度が上がる度に、蘭の体から立ち昇るムスクの甘い香りが鼻腔をくすぐる。
緊張感なのか何なのか…、息が詰まりそうな空気の中、那智は蘭の腕の中で体の向きを変えた。
拒否する事ができないのだから、抵抗したって仕方がない。
上体を捻るようにして振り向き、自分をジッと見下ろしてくる蘭の頬に片手を当ててゆっくりと顔を近づけていく。
蘭とキスを交わすのは、これが初めてではない。
だからといって何度もした事があるわけではないが、見返りとして唇を奪われた事が過去にもある。
だからなのか、それとも最近やけにこういう機会が増えてきているからなのか。那智の中で妙な慣れと度胸がついてしまって、嫌悪感を感じない。
…いや、たぶん相手が尊敬に値する人間だからだろう。尊敬も何も感じていない相手には、間違いなく嫌悪感を抱く行為だ。
だが、羞恥心まで薄れているわけではない。その証拠に、顔を近づけても、すぐにはその唇に己のそれを触れ合わせる事ができずにいる。
「…もし次があるとしたら、見返り要求の条件からコレは除外させてもらう事にします」
お互いの唇が触れ合う直前の位置で囁いた言葉に、蘭がクスリと吐息だけで笑ったのを感じた那智は、そのまま距離を0の状態へ持っていった。
想像よりも柔らかく弾力のある唇。自分よりも大きめのそれは、こちらから仕掛けているにも関わらず逆に仕掛けられているような感覚に陥らせる。
最初は軽く押し当てるだけ、けれど、それが気に入らないとばかりに片手を後頭部に回されて引き寄せられてしまえば、もうお遊び程度で済まない事がわかる。
舌を割り込ませて相手の口腔内へ忍び込ませると、水音を立ててそれを絡めとられた。
「…ッ…ふ…」
思わず息が零れる。
それをキッカケに、今度は蘭が攻めるように行動を始めた。那智の後頭部に回されていた手が更に強く押しつけられ、それまで大人しくシートに座っていたはずの体が那智の上に覆いかぶさるように乗り出してくる。
「…ん…っ…ぅ…」
噛み付くような激しさが吐息すらも奪い尽くし、僅かながらに、もしかしてこのまま貪りつくされていまうんじゃないだろうか…、なんていう肉食獣を前にした獲物になった気分を味わう。
「待…っ…、蘭…」
角度を変える隙を狙って言葉を紡ぐも、そんなものは聞こえないとばかりにまた唇が覆い尽くされてしまう。
お互いの忙しなく荒い呼吸だけが耳に入る。時折聞こえる革のきしむ音は、座っているシートの摩擦音。
経験値の差を痛い程に感じる。口腔内を縦横無尽に侵されて、絡めとられ…。
ここまで濃厚なものをされた事はなかった。キスだけで体が熱くなるなんて。
……――
……―――
「…そういえば、何か俺に用があったんじゃないんですか?」
ようやく蘭から解放され、呼吸が落ち着き熱を冷ましてから車を降りようとした那智は、そこで不意に思い出した。
神の元から連れ出す為だけに来たとは到底思えない。
ドアを開けて、片足をアスファルトの上に下ろしながら振り返ると、ハンドルに片腕を掛けて視線を寄越した蘭が軽く笑った。
「大した用じゃないからいい。今日はもう何も考えずに休め」
「……いいならいいですけど」
納得はしないけれど、蘭がそう言うからにはもう何も話すつもりはないのだろう。
今度こそレクサスから降りた那智は、ドアを閉めて歩きだし、払いすぎた感のある礼を思えばこそ振り向く事をせずに家の玄関へ向かった。
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