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第29話
† † † †
【from】京平
【本文】今夜、四神が動きます。
昼休み。
ご飯を食べた後に屋上でくつろいでいた那智のところへ届いたメール。
給水棟の壁に背を預けて座り、もうそろそろ冷たくなり始めてきた風を頬に受けながらその文面を読んだ那智は、暫くの間画面を見つめた。
四神が動くという事は、確実に獲物は仕留められるだろう。彼らがしくじる事はまずない。
【to】京平
【本文】わかった。今夜は俺も出る。
午後の授業が始まる事を知らせる予鈴が鳴り響く中、素早く文字を打ち込んだ那智は、立ち上がりながら送信ボタンを押した。
【送信完了】
その画面を確認してから携帯をポケットに戻し、校舎内へ戻る。
階段を降りる途中、送信したメールを読んだ相手が何を考えるかを想像した那智は、絶対に着いてくるだろうな…と、もはや間違えようの無い事実を思い描いて自然と口元に笑みを浮かべた。
日が地平線に沈み、太陽の代わりに白銀の上弦月が空を支配する夜。
Trinityに着いた那智は、奥の部屋に行く事なくBarカウンターで時間を潰していた。
カウンター内部にいて皆にカクテルを振舞っている高志に、自分もジンライムを頼む。
出されたそれが想像以上に美味しい事に驚いていると、高志は「フフン」と得意気に笑った。いったいこの人は何処を目指しているんだろう。
「奥に神さんいるよ。那智さん行かないの?」
さっきから、同じくカウンターのスツールに座っていた直哉が何か気になる様子でこちらを見ているな…とは感じていたが、まさかそこを突かれるとは…。
那智は、その顔に困ったような曖昧な笑みが浮かべた。
結局、神のマンションから蘭に連れ出された後、神とはまともに会話をしていない。
神の執着は今に始まった事ではないから慣れているはずなのに、どうしてか今回は気まずさが抜けきれない。
けれど、そう暢気 な事を言っていられない現状なのも確かで…。
…今夜の事が片付いたら、話をしに行くか。
そう決めた那智は、壁際に置いていある黒とシルバーの彫刻で縁どられている柱時計に目を向けて立ち上がった。
四神の元へ向かうにはいい時間だ。
「高志さん、ご馳走様でした」
「いえいえ、またのお越しを」
どうやら今日の高志はバーテンダーの役割を徹底する気らしい。にこやかに那智を見ている。
その時、後ろにいる直哉が「あ」と小さく声を上げたのが耳に入った。
何気なく振り向いた先の直哉は、那智を見ている。…いや、正確に言うと違う。見ているのは那智ではなく那智の斜め後ろだ。
なんだ?
そう思った瞬間、二の腕をグイっと掴まれて問答無用で引っ張られた。
突然の事によろめいて蹈鞴 を踏む足。
体勢を整えたいのに、腕を掴んでいる相手はこちらの事などお構いなしにどんどん歩いて行ってしまう。
「ちょっと、神!」
さすがの那智も不満の声を上げたが、やはりそれは通じず。
いつの間にか現れ、無言のまま移動する相手に引っ張られて辿り着いた先は、いつもの場所、奥の部屋だった。
扉が閉まった途端に、部屋の静寂が痛い程に襲ってくる。背筋を走るゾワっとした感覚は、緊張か恐れか…。自分の感情なのによくわからない。
今ハッキリとわかるのは、目の前に立つ相手の視線が、突き刺さる程自分に向けられているという事だけ。
背後の扉と目の前の神。
息苦しさに喘ぐような溜息が口から零れた。途端に神の瞳に強い光が走る。だがそれはほんの一瞬で消え失せた。
「避けるな」
「避けてない」
僅かに滲み出る苦しそうな声に咄嗟に否定の言葉を放ったけれど、それが嘘だという事はお互いにわかりきっている。
避けてないというのは嘘だ。なんとなく気まずくて、この部屋に来なかったのは事実。
でもだからと言って、避けていた、とも言い切れない。神と話をしたいとも思っていたのだから。
「離れるな」
「離れようなんて思ってない」
先程まであった距離が、気づけばほとんどなくなっている。
背後の扉に体が押し付けられるくらいに神の体が迫り、身長差があるせいで、両サイドに手を着かれるとまるで囲われているような感覚に襲われる。
間近で囁かれる低音の声と、あまり高くない体温。フワリと立ち昇るスパイシージンジャー系の香りは、神のつけている香水の匂いだ。
屈み気味になっている神の顔が首筋に埋められた瞬間、反射的にビクッとしてしまったけれど、すぐに両手を肩にまわして緩く抱きしめた。
時々だが、神は今みたいに駄々っ子のようになる。不安や焦燥感といったものをどう表現していいのかわからないらしく、ただ短い言葉を告げて甘えるように距離を縮めてくる。
那智にしてみれば、神から離れるつもりなど毛頭なく、ましてや嫌いになる事なんて絶対にないのに、神にはそれが伝わらないらしい。
確かに、周囲には魅力的な人間がたくさんいる。だが、それでもやはり那智にとっては神が一番だ。
クラリと眩暈がするほど格好良いかと思えば、時折甘えるような子供っぽさを見せる。強引だったり優しかったり。…思いっきり振り回されて。
気が付けば、抜けられない罠に囚われているのは自分の方だ。
「…神」
名を呼ぶと、首元にあった神の顔が少しだけ上がった。
「俺を信じてほしい。俺は神以外の人間の下につくつもりもないし、神から離れようなんて1ミリ足りとも思ってない。…それは、今だけじゃなくてこれからも」
「………」
これで伝わったかどうかなんてわからない。ただ、それまで神の全身から放たれていた張り詰めた気配が、少しだけ和らいだのを感じた。
ようやくお互いの間に空間ができたのは、それから数分経ってからだった。
身を起こして那智から数歩離れた神は、もういつもの様子に戻っている。
「今から四神か」
「彼らに会うのは久し振りだから楽しみだよ」
部屋の中央にあるローテーブルに向かい、その上に置いてあった煙草に手を伸ばす神に向かってそう言うと、微かにフッと笑う声が聞こえた。
四神は、神も信頼している人物達だ。本当は自分も行きたいだろうに、他にやる事があるからそれも叶わない。
今の笑いは、(俺も行ければ行きたいんだけどな)という気持ちがこもったものだろう。
「それじゃ行ってくる」
「あぁ」
ライターに火を灯す音を背後に聞きながら部屋を出た那智は、そのまま通路を通ってtrinityの店内へ足を向けた。
店へ戻ると、先程まではいなかった人物がカウンターに寄りかかって立っていた。
…やっぱり来たか…。
昼間に送信したメールの内容から想像した通りの相手の行動に、自然と目元が緩む。
「京平」
那智がその名を呼ぶと、それまでボーッと高志の動きを眺めていた京平は、ゆっくり視線を向けて表情を和らげた。
だが、何故かその表情はすぐに曇ってしまった。
「…四神の元へ行くんですよね?」
「あ…、あぁ、そうだけど」
京平の表情の変化に気を取られていた那智は、言葉に躓きながらも頷き返す。
「俺も一緒に行きますから」
「わかってる」
一瞬の間もなく即答した瞬間、京平の目元が嬉しそうに綻んだ。何も言わなくても、京平の行動を那智が理解してくれている事が嬉しいらしい。
「行ってらっしゃい」
カウンターの中から笑顔で見送る高志と、その前に座って無邪気に手を振る直哉に軽く会釈した那智と京平は、二人共にtrinityを後にした。
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