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第31話

「2人共お疲れ様。売人は…その男か」 那智の問いかけにようやく立ち上がった二人は、地面に寝転がったまま起き上がる事すらしない売人を見下ろして頷いた。 「こいつが売人です。ですがもう一人、監視というよりは問題発生時の連絡係みたいな奴もいました」 その白斗の言葉に、那智は即座にこの場に青と須黒がいない理由を悟った。きっと二人はそっちを追ったのだろう。 「わかった、青達の報告を待とう」 「はい」 1を言うだけで10を悟ってくれる那智の返答に、白斗の顔が堪え切れずに笑みを刻む。 …それにしても、朱里が大人しい。 ふと気付いた事実に、白斗は背後を振り返った。 那智大好きの朱里が、本人を目の前にして何も喋らないなど考えられない。いったいどうしたのか…。 「…朱里…?」 振り返った先の朱里は、何故か片手で鼻と口元を覆い、何かを堪えるようにして俯いていた。 白斗の呼びかけに、那智と京平も不思議そうな視線を向けてくる。 「朱里?気分が悪いのか?」 那智が心配そうに一歩足を踏み出した瞬間、 「き、来ちゃダメだ!」 「え?」 一歩後退った朱里が叫んで顔を上げた。その顔は真っ赤に染まっている。 付き合いの長い白斗でもこの朱里の行動は全く読めないのだから、那智と京平に至ってはもうどうにも理解ができない。 場に沈黙が流れたかと思えば、朱里が一言。 「…これ以上那智君に近づいたら、俺、…鼻血出そう…」 「………」 「………」 「………」 あまりと言えばあまりの言葉に、全員が一瞬にして脱力したのは言うまでもない。 お前は変態か。 青がいたなら間違いなくそう吐き捨てただろう。 その後、なんとか気を取り直した3人は、地面に転がったままの売人にようやく目を向けた。 さっきまで暴れていたのが嘘のように、まるで借りてきた猫状態で大人しくうつ伏せているその姿。 「そういや突然大人しくなったな、コイツ。やっと観念したか?」 足先で売人の横腹を突きながら言う朱里に、那智はその眉を怪訝そうに寄せて近づいた。 路地裏の為、小さく薄暗い外灯しかないここでは、よく近づいて見ても顔色すら判別しづらい。 ただ、口元から垂れる涎と弛緩した表情だけはわかる。 「…もしかして、キメてたのか、コイツは…」 明らかにトリップしている様子に、那智は呆れたように嘆息した。 末端レベルの売人は、その本人も薬中である事が多い。中毒になってはいなくとも、ほとんどがドラッグ経験者なのは確かだ。 だからと言って、商売中にこんな状態になる程キメているなんてもってのほか。 直哉が言っていた『売人が玄人から素人上がりの人間に変わったらしいよ』という話は、本当だったという事だ。 身を屈めて売人の顔を確認していた那智は、この時少しだけ油断していた。ここまでラリっていたら、まともな動きは出来ないだろう…と。 「…ウ…ひゃひゃ。美人な子ぉ!」 「…え?」 突如として伸ばされた腕。それは確実に那智の首元を狙っていた。身を屈めているという不安定な状態の那智は、咄嗟の反応に遅れて避けるのに間に合わない。…だが。 グシャッ! 那智に向かって伸ばされていた腕は、一瞬にして地面へと押しつぶされた。 「痛い痛い痛い痛いーーーーー!!」 痛覚はそれなりにしっかりとあるのか、激痛に全身を捩じらせる売人。だがその手だけは、ある人物の足によって地面に縫いとめられている。 「京平」 那智に隣に立ち、冷酷なまでに鋭い眼差しで売人を見下ろす京平は、自分が踏みつぶしている足元にジワリジワリと血が滲みでているにも関わらず、その手をコンクリートで磨り潰すように、履いているエンジニアブーツの底をぐいぐいとねじ回す。 厚いブーツの底とボコボコの地面に削られていくその手。 売人の顔は涙と涎でグシャグシャになっていた。 「…京平、もういい。これ以上やると話が聞けない」 那智の言葉に、京平がようやく足の動きを止めた。 だが、解放する為に浮かせたと思われたその足が、次の瞬間なんの反動もなく一気に下ろされた。 パキパキッ 小さな小枝が数本折れたような音と共に、売人の口元から「ぅグァ!」と呻き声が零れる。 明らかに狂犬モード突入の京平に、朱里と白斗が警戒の眼差しを向けた。 狂犬化してしまった京平には、敵味方など関係ない。那智以外の人間は全て敵となる。 少しでも那智に害を為すような動きを見せた瞬間、命の危険すら感じるくらいに容赦がない攻撃が来るはずだ。 朱里と白斗が那智に害を為す事などありえないが、本能がどうしても警戒してしまう。 そんな二人の様子に気づいた那智は、京平を自分の背後に置くように立ち位置を変えた。 「朱里、白斗」 「なに?那智君」 「はい」 京平を警戒しながらも視線を向けてきた二人に、地面で寝転がって呻いている売人を指し示し、 「話が出来るように、そいつの体を起こしてくれる?」 そう指示を出した。 ここまでグデグデになっていては、まともに話も出来ないだろう。せめて上半身くらいは引き起こして頭をスッキリさせなくてはどうにもならない。 だが自分が近づくとなると、今度は命の保証が出来なくなる。 背後の京平をチラリと見た那智は、いまだ狂犬モードに入っている状態を確認してから朱里と白斗に小さく頷いて見せた。 意図を読み取った二人は売人の横と背後に回り込み、勝手に動きださないよう身体の急所を掴んで固定しながら上半身を起こさせる。 「痛ぇよ~…、なんで俺がこんな目に合わなきゃなんないんだよ~」 グズグズと泣きながら文句をいう売人に、京平以外の三人が呆れた眼差しを注いだ。 先程京平に踏み潰された左手は、骨が折れているせいかダランと体の横に投げ出されたまま。 背後に回って背を支えている白斗は、放っておけばいつまでも俯いてグズグズしている売人の髪をグイっと鷲掴みにして顔を上げさせた。 首が仰け反った事によってさらに呻いている本人の事などお構いなしだ。 それを眺めていた那智は、ポケットに片手を入れて何かを操作しながら売人の真正面に立った。 「これ以上痛い目にあいたくなければ、今から聞く事に全て真実の言葉で答えろ。いいな?」 両眼を眇め、無表情で冷たい眼差しを向ける那智から漂う冷徹なオーラに、売人は一も二も無く小刻みに頷く。 「お前は宗賀(そうが)の関係者か」 宗賀。それは、広域指定暴力団である宗壬(そうじん)会の二次団体、宗賀組の事だ。 宗壬会の中でも、宗賀組は武闘派としても有名である。 もう既に、Vercheのバックについているのがこの宗賀組だという確証を得ている那智は、単刀直入にそこから切り込んだ。 「そうだぁっ!俺は宗賀組の人間だぁ!こんな事してタダで済むと思うなよぉ!」 「余計な事は言わなくていいんだよ!どうせ構成員にもなってないチンピラだろ?」 「ぐぁッ。…ゲホッゴホッ」 途端に朱里の爪先が売人の横腹にめり込む。 その呼吸が少し落ち着くのを待った那智は、一瞬だけ売人の全身に視線を走らせた。 「ここでは、薬物売買、利益収得、暴力団の介入が許されていない事は知ってるな?」 「なんだそれ、そんなの俺たちには関係ないねぇ。シャブ売りでシノギするにはいい場所なんだよぅ。今まで未開拓だったせいか、すっげぇ利益出たぜぇ?ヒャヒャヒャ」 尚も狂ったように笑う売人を黙らせようとしたのか、背後の京平がジリっと動くのを感じとった那智は、後ろ手に京平の腕を掴んで止めさせた。 まだ今は潰すな。潰すのは聞きたい事を全て引き出してからだ それに、今の売人の言葉には疑問が残る。 もともと薬の売買は、そのハイリスクに見合う程の利益は出ないとされている。それなのにコイツは今なんと言った?凄い利益が出た? 「…1パケいくらで売ったのか聞かせてもうおうか」 那智の声がそれまでにないくらい低くなった。そこに本気の怒りが感じ取れる。 ラリっているせいか、そんな事もわからない売人は得意気に笑いだした。 「3万だよ3万!相場以上にふっかけても買うんだもんなぁ!ホント馬鹿だぜぇ」 「…………」 那智は拳をグッと握り締めた。 薬を売っただけでも許されないのに、相場以上だと?……高楼街をなめるなよ。 瞬時にして振り上げられた那智の右足が、売人の側頭部を薙ぎ払った。 バキっという音と共に、白斗が髪を鷲掴んで固定していたにも関わらず、それをすり抜けて売人の体が勢いよく地面に横倒しになる。 直接的な行動に出る事など少ない那智のこの行為に、さすがの朱里と白斗も息を飲んだ。 「…白斗、もう一度そいつを起こせ」 「あ、はい」 冷え切った那智の声に、白斗はまたしても売人の上半身を引き起こして正面を向かせた。倒れた際に唇を切ったのか、顎先にはダラダラと流れる赤い液体が滴っている。 「それで、ここで薬を売れと命じたのは誰だ?直接話はしなくとも、誰に金が流れるのか聞いた事はあるんだろ?このシノギの元締めの名前は?」 「な…なまえ…は、しん…新崎幹部…」 「新崎?それは間違いないな?」 「ま、間違いないっ!高楼街はまだどこの組も入ってない処女地だから、開拓するにはいいって!まず手始めにシャブから行けって!でもここは簡単には入り込めない街だから、Vercheを使えばいいって、そう言われて」 「…なるほど…そういう事か。わかった」 ラリっているせいか精神不安定で完全に怯えきっている売人の顔を見て、これはもう嘘をつけるような余裕のある状態じゃないと確信した那智は、そこで更に何個か質問を終えた後ようやく視線を外した。 その時、不意に朱里がカーゴパンツのポケットから携帯を取り出して耳に当てた。 着信があったらしい。 「はいはい。…あ~そう、うんわかった。那智君に言っておく」 それだけで通話を切った朱里は、携帯をポケットに戻しながら、 「青と須黒が追っていたもう一人の行き先がわかったよ~」 ニヤリと笑ってそう言った。 売人の後始末を白斗に任せた那智は、まだ暴れ足りない様子の京平を視線で押さえてから朱里に向かった。 「行き先は?」 「北区との境にある鈴原不動産のビルに入っていったって」 「…鈴原不動産ね。…馬鹿な奴だな…」 那智の口がゆるりと弧を描いた。 鈴原不動産といえば、宗賀組のフロント企業だ。もう一人がそこに逃げ込んだという事は、売人の言った証言が本当だという裏付けにもなる。 「ねぇねぇ、那智君、どうすんの?宗賀と闘っちゃう?」 異様にワクワクした様子を見せる朱里に、那智の表情が緩んだ。この無邪気さは一種の武器だな…と。 だが、すぐに首を横に振る。 「いや…、裏高楼街の掟を破った人間に真正面からぶつかってやるほど優しくするつもりはない」 「じゃあ放っておくのかよ~…」 今度は何やら不満げになった朱里の脳天に、誰かがポスっと手刀を落とした。 「いてっ」 「朱里。那智さんには那智さんの考えがあるって事は、よくわかっているでしょう?」 売人をどうしてきたのか知らないが、いつの間にか戻ってきていた白斗が朱里の横に立っていた。 「わかってるけどさ~、俺はこうドカンと派手にいきたいんだって!」 「…朱里…」 単細胞過ぎる朱里の言動に白斗が溜息を吐く。 そんな二人を穏やかに見守る那智。 だが、京平だけはどこか厳しく不安な面持ちで、そんな那智の横顔をじっと見つめていた。

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