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第37話

†  †  †  † ピピピ、ピピ、ピピピ 暗証番号を打ち込み終わると同時にピーっという小さな電子音が鳴り、ドアの鍵が解錠された事を告げられた。 ドアを開け、いつものように玄関へ足を踏み入れた蘭は、何も変わっていない割に、でも何かが違っている自分の部屋の空気を感じ取って警戒に双眸を眇めるも、その数秒後に今度は疲れたような溜息を吐きだした。 綺麗に磨かれた黒の皮靴を脱ぎ、大きなスライドで廊下を進んで辿り着いた先の広いリビング。 一見何も起きていない部屋を一周グルリと見まわし、その視線がピタリとある一角に留まった。 部屋の隅で、紺色と白色の二つの毛布がいっしょくたになって丸まっている。 「…また勝手に…」 ここのセキュリティーは大丈夫なのかよ。 そう思わなくもないが、潜り込んでいる相手が相手なだけに、セキュリティーに問題があるのではなく、この人物が規定外なのだと理解せざるをえない。 とりあえず毛布の塊は放置し、着ていたダークスーツの上着を脱いで奥のベッドルームへ向かった。 ハンガーに掛けた上着を壁際に吊るし、デスクの上に置いてあるパソコンのメールランプがオレンジ色に点滅しているのを見て、片眉をピクリと上げる。 …面倒臭い事だったらアイツに片付けさせてやる。 リビングにいる人物を思い描きながら毒づいてメールを開くと、なんの事はない、下の者からのいつもの定期報告だった。 簡単な指示を送った後、着ているワイシャツのボタンを上から順に3つ程開けながらリビングへ足を戻した。 カウンターでドリップ式のコーヒーをセットし、リビングの中央にあるソファにドカっと腰を下ろした蘭は、口端に咥えた煙草に火を灯しながら、いったいどうしたものか…、と毛布の塊を眺めた。 モゾっとでも動こうものなら起こしたものを、実際は、そこに本当に奴がいるのかと疑わしく思えるくらいにピクリとも動かないその塊。 だが、間違いなくいる。それは確かだ。 …まぁ、用があるならいずれ起きるだろう。 早々に考える事を放棄し、肺の奥底まで深く吸い込んだ紫煙を宙に吐き出してから静かに目を閉じた。 『宗賀が高楼街に手を出し始めました』 宗壬会の二次団体である宗賀組が高楼街に手を出し始めたと、それを聞いた時は耳を疑った。 高楼街には手を出すな、と、それは暗黙の了解事で決まっていたはずだ。 とある件の事も絡んでいるとは思うが…、それ以外にも、新崎という幹部がシノギ(※)が上手くいかずに資金不足で足が出ていると聞く。(※ヤクザ世界での利益を得る仕事のこと) 組長である三田村がこんな馬鹿げた事を指示するとは思えない。たぶん、その新崎あたりが独断でやっているのだろう。 ただし、三田村組長もそれを止める動きを見せないという事は、問題が起きるまでは様子見をするつもりか…。 宗賀の色々な思惑を頭に描き出しながら閉じていた目を開き、テーブルの上に置いてあるバカラの灰皿にトンっと煙草の灰を落とした。 「宗賀ともあろうものが、…情けねぇな」 呆れた笑いしか出てこない。 那智達にちょっかいを出して、桐生組の思惑を密かにぶっ潰したいという名目もあるだろうが、実際はそれに被せて単に資金を稼ぎたいだけとしか思えない。 桐生の高崎組長もなめられたもんだ。 紫煙と共に溜息を吐き出した蘭は、まだ半分程残っている煙草をギュッと灰皿に捻じ込んだ。 「……ウルサイよ…、独り言は誰もいない時にすればいいだろ…。酷い迷惑だ」 「………」 突然放たれた毒舌と同時に、今までピクリともしなかった毛布の塊がモゾモゾと動き始めた。 実はその存在を半ば忘れかけていただけに、蘭は少しだけギョッとしたように視線を向ける。 毛布の山をモサモサとかき分けて現れた本体。その顔にはデカデカと“不機嫌です”と書いてあった。 乱れたピンク色の髪を雑に手櫛で整えているセイは、まだ半分眠っているようなボーっとした空気を醸し出しながらも、眇めた半眼で蘭を睨み上げてくる。 思わず「悪い」と言いかけた蘭だが、すぐに、それは違うだろ…、と気付いて一度言葉を飲み込んだ。 「………お前なぁ…、勝手に人んちに入り込んでおいてその言い草はないだろ」 怒りよりも呆れが込み上げ、嘆息しながらソファの背もたれに深く深く背を預けて脱力する。 それでもセイは“何処吹く風”状態で、のん気に欠伸をしているだけ。蘭の抗議の言葉など聞いてもいない。 あまりにマイペースな相手に、わかってはいても毎回どうにかならないかと足掻こうとする自分が何やら不憫だと思う。 そんな事を考えた蘭だが、結局セイの態度をどうにかしようとする事を早々に諦めたのは言うまでもない。 この性格は死ぬまで治らない。…いや、死んでも治らない。 呆れの眼差しを注ぐ蘭を気にも留めずに起き上がってきたセイは、草食動物のようなゆっくりした動きで歩き出し、向かい側のソファに腰を下ろした。 勝手に煙草を取り出して口端に咥えている。 「この前、那智のところに行ったんだろ?教えてやったの?お前狙われてるよって」 「…いや…、言おうと思ったけど神とゴタついてたからやめた。今すぐどうこうって話じゃねぇからな…、混乱させてもしょうがないだろ」 「ふぅ~ん…、神とねぇ…」 「シャブの件は別として、なんで宗賀がVercheを使って闇とゼロを潰そうとしてるのかその理由を知ったら、アイツらはどうせ笑うだけだ」 そこで一呼吸置いて更に言葉を紡ごうとした蘭の鼻先に、フワリとコーヒーの香ばしい良い香りが漂ってきた。 セイも起きた事だし、目を覚まさせる為には丁度いい頃合いだ。 ソファから立ち上がった蘭はそのままキッチンカウンターへ向かい、ドリップされたコーヒーが下に落ち切っているのを見てカップを二つ用意した。 「あ、ボクはミルクと砂糖たっぷりね」 「馬鹿言え。お前はブラックで目を覚ませ」 褐色の液体をカップに注ぎはじめると、目の覚めるような馨しい匂いが漂ってくる。 自分の好み通りに濃い目に作ったそれは、たぶん寝起きのセイにはキツイだろう。 飲んだ瞬間に顔を顰める姿を想像しただけで、口元がニヤける。 「ほらよ」 なみなみとコーヒーの入ったカップを手渡し、またソファに腰を落ち着ける。 自分のコーヒーを飲みながらさりげなくセイの様子を窺うと、案の定、一口飲んだ瞬間に眉間の皺が深くなっていた。 本当は笑いたいが、それをやったが最後、100倍の嫌がらせをされるだろう事がわかっているだけに、気合いと根性で無表情を装う。 そんな無意味な事に力を注いでいると、嫌そうにカップをテーブルに置いたセイが、まだ眉間の皺が消えないまま呟いた。 「…まぁ…、那智にとっては宗賀の思惑なんてどうでもいい話か。……で?言うわけ?」 「何を」 突然の問いかけにさすがの蘭もついていけず、逆に聞き返す。 そこでワザとらしく首を左右に振って溜息を吐くセイに、更なる濃いコーヒーを飲ませたくなった蘭を誰が責めよう。 「何を?じゃないよ、蘭。お前がどういう立場の人間なのかを話さないのか?って言ってんだよ。高楼街の外の話だから、お前が今何をしてるかなんて派閥の奴らは全く知らないだろ。ここまで可愛がっておいて、自分の方の真実は教えませんってムシが良すぎない?ボクならムカつくね、絶対」 フンっと思いっきり鼻先で笑う憎ったらしい様子に、さてはこれはコーヒーの仕返しか…、とさえ思ってしまう。 それでも、何かをやらかしそうな相手に釘を刺す事だけは忘れない。 「セイ、…お前勝手に言うなよ?」 「お前がこの前辿ったマカロフの密輸ルート、教えてくれたら黙っててやるよ」 「……口止め料か」 「Yes,Just so(その通り)」 セイの方が一枚上手だったらしい。本人は何の損もしていないのに、結局利益だけを奪い取っていくこの鮮やかな手口。 さすがだな…、と、蘭は降参を表すように苦笑しながら肩を竦めた。

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