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第40話

「こんにちは、セイさん」 「まぁ入りなよ。どうぞ」 ドアを開けて迎えてくれたのは、人畜無害にしか見えない優しい笑顔のセイだった。 それに対して那智も、胸の内に含みある物を一切感じさせないにこやかな微笑みを返す。 ここに蘭がいたら、「狐と狸の化かし合いだな」とでも言いそうだ。 その後、何も言わずに踵を返してさっさとリビングへ戻っていくセイを見た那智は、一瞬躊躇ったものの、すぐにその後を追った。 相変わらず広いリビングに、蘭の姿は無い。 それなのに我が物顔でソファに座り、まるで自分がこの部屋の主だとでもいうような態度でコーヒーらしき物を飲んでいるセイを見た那智は、蘭に同情の念を覚えた。 そして蘭の器の大きさを改めて実感した。 「…なんだよ」 「え、何がですか?」 セイを見つめて立っていた那智に向けられた、何やら不満そうな顔。 咄嗟にとぼけてみたものの、素晴らしいセンサーを持つセイの本能には敵わない。 「お前いま物凄く失礼なこと思ってただろ」 「そんな事ないですよ。ただ、今日は蘭さんがいないんだなと思っただけです」 「…ふぅ~ん」 「………」 たかが『ふぅ~ん』という言葉を、ここまで含みを持たせたように言える人間は数少ない。 思わず視線を逸らした那智を見るセイの目には、どこか拗ねた色が浮かんでいた。 「お前が蘭のことを好きなのは知ってるからいいけどね。…とりあえず座ったら?」 「は?…あぁ、はい…」 突然聞こえた「好き」という言葉に驚いて振り向いてしまった那智だが、セイの目の前にあるソファを示された事に気が付くと、とりあえずそこに腰を下ろした。 本物の革の手触りと、固すぎず柔らかすぎない弾力。 長時間座っていても疲れないだろうとわかる座り心地の良いソファに、自然と肩の力が抜ける。 「………」 「………」 …………。 コーヒーを飲み終わったセイを見て、さぁ本題に入るのか…、とその姿を見つめるも、今度は両腕を上に伸ばしたあげくに欠伸をしはじめた。 欠伸をしても損なわれないその端正な顔は凄いと思う。思うが……、 「…あの…、セイさん?」 「…………」 ソファに身を横たえ、普通に目を閉じたその様子にさすがの那智も顔を引き攣らせた。 まさか今日ここに自分を呼んだのは、単に暇だったから…とか言うんじゃないだろうな…。 そんな予感がしてしょうがない。 呼びかけを無視して、本格的に寝に入ろうとしているセイ。 本来なら、セイが他人のいる場所で寝るなんて事は万が一にもありえない。例外は蘭だけ。 それなのに今、那智が目の前にいるという状態で普通に眠ろうとしている。 那智はそんなセイの睡眠事情を知らない為に、呼び出しておきながら寝るってどういう事だよ、と呆れていたが、もしここに蘭がいたのなら本気で驚いていただろう。 セイの、那智への信頼の強さを。 今にも寝息を立てそうなセイの様子を暫くの間眺めていた那智は、持っていた通学用バッグから小さなプラスチックのような物を取り出した。 指に摘ままれたそれは、青色のSDカード。 那智は、なんの躊躇いもなく真顔のままSDカードをセイに向かって投げつけた。フリスビーのように投げつけた際の手首のスナップは、なんとも素晴らしい切れ具合。 ペシっという意外と鋭い音が響いた事から、何気なく投げたように見えて、実際は物凄い力を込めて投げた事がわかる。 それは見事に額にヒットしていた。 「い…ったいな!何すんだよ」 「何すんだよ、じゃないですよ。人を呼びだしておいて一人だけ寝るってどういう事ですか。用がないなら本気で帰りますけど」 「あぁ、うん、それはダメ。そんなに怒るなって」 「怒っていません、呆れてるだけです」 額に当たってソファへ落ちたSDカードを拾ってテーブルに戻したセイは、横になったままその視線を那智に投げかけると、立てた人差し指をチョイチョイと動かした。 それは、那智を呼ぶ動作。 思わず嫌そうに眉を顰めた那智だが、結局呼ばれるままに立ちあがってセイの寝ころぶソファの横に立った。 その瞬間、 「ちょっ…、何を」 下から伸びてきたセイの腕が、問答無用の力強さで那智を引っ張った。 もちろん那智は、引っ張られるままにセイの体の上に圧し掛かるようにして転がってしまう。 途端にスルリと腰に回されるセイの長い腕。フワリと鼻先を掠める香水の匂い。 いったい何が起きたんだ…と茫然としたまま、意味を問うように頭上にあるセイの顔を見上げた。 「…何その不満そうな顔。お前が『一人だけ寝ないでくれ』っていうから一緒に寝てやろうと思ったのに」 「違っ…、そうじゃなくて」 …あれはそういう意味じゃない。 あまりに想定外の返答を受け、否定の声を上げたまま固まる那智に、セイはクツクツと喉奥で笑い声をたてた。 「まったく可愛いな~那智は。このまま食べちゃいたいくらいだね。………どう?」 そう言って至極楽しげに顔を覗き込んでくるセイに、那智の口から深~い溜息が零れ出た。 「どうこうも無いですよ。どうもしません、何もしません。俺は眠くないので早く腕を離して下さい」 那智は、目の前にある黒シャツの胸元を片手で軽く叩き、現状の不満を訴える。 それでも、腰と背中に回された腕は離れる様子を見せない。 普通のものよりは大きく作られているが、ソファはソファだ。細身とはいえ男二人で寝転がるには少々狭い。 暴れて床に落ちるのはセイの体の上に乗っている自分の方だとわかるだけに、そんな無様な目にはあいたくない。 どうしようかと考えている那智の耳に、突然その言葉は入り込んだ。 「宗賀の新崎とVercheのアホ2人にお前の顔がバレたぞ」 「……っ…」 言葉の威力は大きく、那智の目が驚愕に見開かれた。 動きを止めた那智を先程よりも更に強く抱き寄せたセイは、耳元で低く宣告の言葉を放つ。 「Vercheの狙いがお前に定まった」 「………」 悔しさから唇を噛みしめた那智。 …やられた…。 Trinityに入る時も出る時も、周囲に目をやって最大限の注意を払っている。 出歩く時は、時々和真が着いてくるとはいえ、ほとんど一人だ。 それに、ここ最近は特に注意を払い、できる限り裏方で行動していたというのに…。 やはり素人と玄人は違うという事か。素人の目にはバレなくとも、玄人が探し出そうと思えばいとも簡単に見つけられてしまうものなのか。 確かに、宗賀に脅しをかけた時点で、何らかの報復をされるだろうと覚悟はしていた。だがまさかこうくるとは…。 己の甘さと失態に、目の前が赤くなる程の怒りと羞恥が湧き起こる。 こみ上げる感情を抑えようと、無意識にセイの腕をギュっと握りしめた。 「お前、新崎に喧嘩売っただろ?アイツは蛇みたいに執念深い奴だからな~、何かしてくるとは思ってたけど…。…どうするつもりだ?」 「………」 身体を通してダイレクトに響くセイの声に、那智は答えを出せないでいた。 顔がバレたという事は、そして標的に定まったという事は、これまでのように軽々しく一人で出歩く事が叶わなくなる。 腕に自信がない訳ではないが、一人の所を多勢に囲まれたら終わりだ。超人ではないのだから無傷で済むわけがない。 鼻先を掠めるセイの甘い匂いに、ついつい安らぎを感じて寄り掛かりそうになった自分に気が付いた那智は、ハッとしたように目を瞬かせてセイの腕から手を離した。 それと同時に、那智の下にいたセイがスルリと体を起こして体勢を入れ変え、逆に上から圧し掛かってきた。 見下ろしてくる瞳にいつもの揶揄するような色はなく、気のせいか見守られるような暖かさを感じる。 セイらしくない表情に戸惑う那智に、ゆっくりとセイが顔を近づけた。 そして、那智の唇にフワリと柔らかく触れるセイの唇。それは優しい暖かさだけを残してすぐに離れた。 「…セイ…さん…?」 「裏高楼街に玄人が手を出す事は、ボクも蘭も認めない。もし宗賀が手に負えない時は、遠慮なく泣きついて来い。あいつ等に関してはボク達がなんとかしてやる」 「………有難うございます。でも、その気持ちだけ受け取っておきます。俺達のプライドにかけて、簡単に引き下がるわけにはいかない」 珍しいセイの優しい言葉に、那智は微笑みながら礼を言った。 セイの…、ではなく、蘭のマンションを後にした那智は、そのままtrinityへと足を向けた。 今回の失態を神に黙っている訳にはいかないからだ。 常よりも更に警戒をしながらtrinityの扉をくぐった那智に、カウンター前にいた京平が訝しむような視線を送ってきた。 動物的な感を持つ京平には、那智の気配がいつもよりもピリピリと張りつめている事がわかったのだろう。 ただでさえ那智の事に敏感な京平には、1ミリ足りとも誤魔化す事は出来ない。 こんな時にそれを実感した那智は、Trinityに足を踏み入れた事もあって気が緩み、思わず苦笑した。 「神は奥?」 カウンターへ歩み寄りながら問うと、肯定の頷きを返してきた京平は座っていたスツールから立ち上がって那智を迎えた。 そしてその長い腕が伸ばされ、優しく背に回される。 「何があったんですか?」 耳元で聞こえる、柔らかくも不安を滲ませた低音の声が心地良い。 何か、ではなく、何が、と断定した京平の言葉に一瞬躊躇った那智だが、暖かな腕の中で僅かに首を横に振った。 「………大したことじゃない」 「イヤです」 「………」 即座に放たれた否定の言葉に、思わず笑ってしまった。 周囲からは年齢以上に落ち着いていると思われている京平が、那智の前ではまるで駄々っ子のようだ。 大したことじゃない、なんてそんな言葉では納得したくない。 その“イヤだ”という言葉を体現するかのように、那智を抱く腕にギュッと力が籠る。 それは、親鳥に縋る雛のような無垢な可愛らしさを醸し出した。 京平の心配と不安が心底からのものだとわかるだけに、適当に誤魔化す事だけはしたくない。 那智は、京平の背に手を回して宥めるように軽く抱きしめた。 「Vercheと宗賀に、俺の面がわれた」 途端に京平の体が強張ったのを感じた那智は、抱きしめていたその手で軽くポンポンと背を叩く。 「俺のした事が、新崎の堪に触れたんだろう。…まぁ当たり前だけどね。この状況を逆手に取って、更なる対応策を考えるから大丈夫だよ」 「イヤです」 「…京平…」 「危険な事はしないと約束したのに…。嘘をつくならもう貴方の言葉は信じない。俺がずっと一緒にいて貴方を守ります」 そう言って縋りつくようにギューッと抱きしめてくる京平に、那智は困ったように苦笑した。 京平の純粋な心配と優しさが嬉しくもあり、そんな事を言わせてしまった自分の不甲斐なさが情けなくもある。 いつもは誰かしらいるはずのtrinity内は、こんな時に限って誰もいない。だからこそ、京平は本音をぶつけてくるのだろう。 誰もいなくて良かったのか悪かったのか…。 多少苦しさを覚える腕の中で、どうしたものかと悩む那智の耳に、突然その声は飛び込んできた。 「京平、那智を離せ。いつまでもその状態だと話が聞けない」 …いつからいたのか。奥の部屋に通じる扉の横の壁に凭れて、腕組みをした神が無表情でこちらを見ていた。 神が来たにも関わらず、それでも手を放さない京平の背中を宥めるように何度か優しく叩くと、渋々…といった感じでようやく腕が離れていく。 京平の体温が暖かかったせいか、開いた空間に入り込んだ空気がやけに冷たく感じた。 「とりあえず俺は大丈夫だから、安心して」 心細そうな表情の京平にそう言ってから歩き出すと、それを見た神もまた奥の部屋へ戻っていく。 もう少しの間、京平の不安を取り除いてやりたい気持ちはあるけれど、残念ながらそんな時間の猶予が無い事を自覚している那智は、心の片隅に残っている燻った物を振り切るようにして背を向けた。 「さっき、セイさんに呼び出されて蘭さんのマンションに行ってきた」 部屋に足を踏み入れたと同時にそう告げると、先にソファに座っていた神が視線だけでチラリと那智を見てきた。そしていつものように、無言のまま煙草を取り出して口端に咥える。 そんな神の正面のソファに腰を下ろした那智は、一度深呼吸して口を開いた。 「宗賀とVercheに俺の面が割れたらしい。おまけに、めでたくもターゲットに決定。…俺も随分と舐められたものだね」 「…………」 溜息混じりに軽く言った那智だが、その表情には少しだけ自嘲めいたものが浮かんでいた。 無言で紫煙を吐き出す神の表情は、特に変わることなく落ち着いている。 暫くしてから、火のついたままの煙草をテーブルの上にある灰皿に置き、フッと短く嘆息した。 「ヤクザが絡んできた時点で、いつかはお前の事が表沙汰にされるだろうという予測はしていた。闇の幹部連中にもバレている今、どうせならこれを機に堂々と動けばいい。お前が集中的に狙われるようなら、誰かを付ければいい事だ。気にするな」 「…神…」 淡々と語るその言葉の奥底には、那智が落ち込んでいる事がわかっているのか、優しさが滲んでいた。 神は、那智の事であれば何でもかんでも容認し許しているというわけではない。そんな甘い人間ではない。 それなのに何故今回のこの失態を許すのか…。 それはひとえに、那智の日頃の行動に隙など見当たらなかった事を知っているからだ。 できる限りの注意を払い、自分の立場を自覚して行動をとっていた事を、神は全てわかっている。 だからこそ、これまで那智の正体を周囲に知られる事はなかった。 ただ、今回の敵はそれが通用しない相手だったという事。 裏社会を網羅し、裏の人脈ネットワークを持つ玄人相手に、100%大丈夫だといえる対策はない。 そんな組織に怯まず脅しをかけ、あまつさえそれが功を奏して売人は姿を消した。 那智の事だ、そんな事をすれば自分に火の粉が降りかかる事はわかっていただろう。 それでも行動を起こした相手に対し、失態だ、などとそんな戯言めいたくだらない言葉は、例え口が裂けても言おうとは思わない。 表面上は変わらないまでも、奥底では悔しがっているだろう那智を正面に見据えた神は、その双眸を僅かに緩めていた。

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