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第42話
そして現在。
高楼街には長年に渡る様々な思惑が絡み合ったそれなりの事情があるという事を、宗賀の幹部である新崎が知らないはずはないのに、今回のこの明らかに条約を無視した動き。
…焦ったか…。
月明かりの下、人影の無い裏道を歩きながら、那智は小さく舌打ちをした。
如月の話では、新崎の親父(*)にあたる三田村組長は、新崎のこの動きを知っていながらも黙認している節があるという。(*実の父親の事ではなく、親子盃を交わした相手の事)
もしそれが本当なら、新崎の行動が上手くいった暁には、本格的に宗賀が乗り込んでくるとしか思えない。
いや…、下手をすれば、宗賀の上である宗壬会本体が出てくる恐れもある。
条約を破棄して、国内の裏組織全てを敵に回してでも高楼街が欲しいのか。それに、そこまでの大事は勝算がなければやらないだろう。
という事は、ここで新崎の行動を阻止して高楼街から叩き出す事が出来なければ、事態は確実にまずい方向へと転がってしまう。
逆に、ここを阻止出来れば、高楼街を狙っているだろう連中へのかなり有効な牽制となる。
要は、失敗が許されないという事。
玄人連中にしてみれば、自分達派閥は体の良い防波堤くらいにしか思っていないだろう。
だが、残念ながら俺達は首輪を付けられた番犬じゃない。
彼らが気を抜いている間に、この高楼街の権限は全て俺達派閥が掌握する。
もちろん、それはすぐにすぐ出来る事じゃない。布石を敷いて、徐々に徐々に。自分の代で出来なくても、後輩達に引導を渡す事でそれは可能となる。
単なる防波堤だと…、都合の良い捨て駒だと…、そう思っていた素人に高楼街を奪われたと気づいた時、彼らは一体どうするのか。
静かに足を進める那智の口元が、ほんの僅かに笑みの形につり上がった。
Verche、Moonless、宗賀。そして裏組織。
頭の後ろにも目がないとやっていられない程に、注意を払う対象が多過ぎる。
…さぁ…どこから崩そうか…。
高揚する気持ちを抱え、冷たい風が通り抜ける建物の間の小道を歩きながら、那智はふと視線を横に向けた。
……あれは…。
どこかの会社のビルに填められている大きな窓ガラス、そこに那智の斜め後ろの状況が映し出されていた。
建物の陰に見え隠れする複数の人影。明らかに怪しい密やかな動き。
やはり火に入る“虫”の立場になったようだ。
…仕方ないな…。深い溜息を吐いてピタリと足を止めた。
ここは位置的から考えると西区、Moonlessの管轄だ。だが、Moonlessのメンバーではない気がする。
数メートルも北へ行けばすぐに北区との境目がある。という事は…。
だいたいの見当をつけて背後を振り返った那智は、いまだに出てこない隠れたままの人影に声をかけた。
「ストーカー行為ご苦労様。残念ながら俺も暇な立場じゃないんですよ。このまま連れ歩くつもりはないので早く出てきてもらえませんか」
挑発を混ぜ込んだ発言に怒りを覚えたのか、建物の陰から数人の少年が飛び出してきた。
「いきがってんじゃねぇぞ!」
「こっちは6人揃えてんだ!お前なんてすぐに捕まえて臣原さんの前につき出してやるからな!」
騒がしい怒声に、那智は眉を顰めた。
“臣原”という名前を出すという事は、やはりVercheメンバーか。
さすがに、6人も相手にして無事でいられる程の腕は持っていない。
せめて3~4人くらいであれば勝てる見込みはあったのに…どうしようかな…。
気色ばむ6人を目の前にし、いまだコートのポケットに両手を入れたまま静かに佇む那智。
そこから広がる静謐な空気に飲まれるように、Vercheメンバーはいつの間にか誰一人として言葉を発さなくなっていた。
遠くの方で聞こえる車の走行音が、まるで別世界の出来事のようにさえ感じる静かな空間。
6人の目は全て那智に注がれている。
そして、警戒も露わに凝視されている那智は、少し独特な見方で6人を見つめていた。
対象をひとつに絞って見るのではなく、全員の動きを把握できるように視野を広げた見方。
彼らにしてみれば、那智に見られている事がわかるのに、実際に那智の目を見てもキッチリと目線が合わせられない。それでも確かに見られている。見ているのに見ていない、そんな感覚を味わわせられる。
妙に気持ちの悪い感覚に陥ったVercheメンバーは、不確かな澱みのような物が心の底に溜まっていくのを感じていた。
自分達の方が人数が多いのに、まったく怯えた様子もない。何を考えているのかわからない無表情と、醸し出される得体のしれない静けさ。
そして、訳のわからないそれらは、“不安”という形となって感情を覆っていく。
何が何だかわからないその不安に押しつぶされそうになった一人が、突然那智に殴りかかってきた。
だが、そんなに隙だらけの拳を那智が避けられないはずがない。顔に向かって来た拳を、最小限の動きで横に避ける。
目標を見失った相手は、勢いあまって足をよろめかせた。そこを、那智の放った強烈なミドルキックが襲う。
両手はポケットに入れられたまま、腰を軸に回転させ、片足に重心を落とした状態で薙ぎ払うようにもう片足を振り上げた那智のミドルキック。
足もとがよろけていたその少年は、それをもろに食らっていとも簡単に道路に崩れ落ちた。
「…ってめぇ!」
「焦るべからず、って言葉を知ってほしいね」
怒りの形相を浮かべた残りの5人に、ワザとらしく微笑む那智。
蹴りに使用した足の爪先で地面をトントンっと軽く小突きながらの余裕ある姿に、血気盛んなVercheメンバーが一斉に襲いかかった。
…やっぱりこうきたか…。
早く終わらせたいという心のままに挑発したとはいえ、さすがにこれは歓迎できない。
狭い路地裏のおかげで、5人の拳や蹴りを同時に受ける事にはなっていないものの、右からの拳を避ければ左から蹴りが放たれ。それを避けている内に今度は正面からも蹴りが飛ばされる。
間一髪ギリギリでなんとか避けているものの、体力と集中力のどちらかが切れた瞬間に総攻撃をくらう事は必至だ。
前髪を掠った拳に多少の危機感を覚えながらも、隙あらば反撃をする那智。
それでも、致命傷を負わせられなければ、この人数を減らす事は出来ない。
「この野郎っ、ちょこまかと逃げやがって!」
「俺はマゾじゃないんでね、…っと…、逃げるに決まってる」
「うるせぇ!黙れ!!」
親切に返事をしてやったのにこれだ。
さすがVerche。心に余裕が全くない。これでは面白いものも面白くないだろう。
僅かに上がってきた息を整えながら、冷静にそんな事を思った時。
「…ッ…」
避けたはずの蹴りが、というより相手の靴先が、運悪くコートの裾に引っ掛かった。
それによって態勢がぐらつき、正面から勢いをつけて放たれたドロップキックを避けるタイミングを逃す。
咄嗟に全身に力を入れて衝撃に耐える態勢をとる那智。
…だが…。
「ぐぁッ!!!」
突然、ドロップキックを放とうとした少年が横に吹き飛んだ。
一瞬、その場を静寂が襲う。
「…秋津。誰もそこまでしろとは言ってない」
「え?!ダメでしたか?!えっ、でももうやってしまいましたが…」
低く艶のある美声と、動揺気味のオロオロした声。
聞き覚えのある声に、那智は僅かに目を見開いた。
…まさか…。
残り4名となったVercheメンバーが、想定外の来訪者に警戒を露わにする。
「お前、確か闇の幹部の、…秋津」
「なんで、闇の幹部がコイツに手を貸すんだよ!」
「う…後ろにいる奴、ダレだよ…」
当たり前かもしれないが、Vercheメンバーは、秋津の顔は知っているものの、もう一人の人物が誰なのかはわかっていないようだった。
もし知っていたのなら、一目散に逃げていただろう。
大通りへと通じる一本の小道から姿を現したのは、Moonlessの新人幹部である秋津と、そして。
…蓮…。
ただそこに立っているだけなのに圧倒的オーラを纏う蓮の姿に、何も知らないVercheメンバーでさえも、ジリジリと後退るような動きを見せている。
だが蓮の眼差しは、そんな雑魚には一切向かわず、ある一点だけを見つめていた。
射抜くような眼差しの先にいるのは、静かな光を湛えた双眸を持つ那智。
「秋津」
「あ、はい。わかりました」
那智から視線を外さないまま蓮が名を呼ぶと、それだけで意味がわかったのか、秋津はコクリと頷いて、那智とVercheの間に体を捻じ込むようにして入り込んできた。
そこでようやくVercheメンバーにさっきまでの血気が戻る。
「おい!今はお前ら闇には関係ねぇだろ!邪魔すんな!」
「…関係ないって…。あの、すみませんけど、ここがどこかわかって言ってます?」
秋津のその言葉にハッと息を飲んだ彼らは、ここがMoonlessの縄張りである西区だと気付いたようだった。
動揺がさざ波のように広がる。
「他派閥の人に西区で勝手な事をされると困るんですよね。俺達の事、舐めてませんか?」
突然、それまでは穏やかだった秋津の空気が尖った物に変わった。
近くにいた那智は、その空気にピリピリとした何かを感じとる。
と同時に、秋津の目の前にいたVercheメンバーが物凄い速さのストレートパンチを顔面に食らって鼻血を吹き出した。
…かなりの腕だな。
瞬発力の強さに、驚き半分、感心半分でその様子を眺めていた那智。
だが、その肩を誰かに思いっきり強い力で掴まれて引っ張られた。
振り向いた先には、那智の二の腕を掴みなおして歩き出す蓮の後ろ姿。
これにはさすがの那智も動揺せざるをえなかった。
歩き出した蓮と那智に気が付いたVercheメンバーが手を出そうとするも、それを阻むように秋津が蹴りを放つ。
その間に、那智はまんまと蓮に拉致られてしまった。
長い足を駆使した大きなスライドで歩く蓮と、引っ張られて足早に着いていく那智。
4~5分歩いた所で、蓮がようやく足を止めた。
商業地区から少し離れた住宅地区との境目。
ここはもう大通りを走る車の音や喧騒さえも聞こえない静寂の地。
外灯も少ないせいで、頼りになる明かりは月の光だけだ。
振り向いた蓮の瞳は、やはり以前と同じく那智を蔑む様な色を湛えていた。
いつの間にか離されていた腕に、何故か通常以上の空気の冷たさを感じる。
これは、助けられたとみていいのだろうか…。状況からすれば、そういう事だろう。だが、明らかに那智を嫌っている蓮が取る行動とは思えない。
どちらかというと、完敗はしないまでもVercheに殴られて傷を負う姿をせせら笑われた方が納得がいく。
そんな事を考えながら目の前に立つ相手の様子を眺めていると、
「助けられておきながら礼も無しか?」
案の定、その唇から悪意のこもった冷やかな言葉が放たれた。
思った通りの対応に、ついつい溜息が零れる。
「…そうですね。偶然通りかかったにも関わらず何の気紛れかわからない行動ですけど、助けられた事には変わりはないですね。有難うございます」
徹頭徹尾 抑揚の無い那智の声に、蓮の片眉が僅かに引き上がった。気に入らないとでも言いたげな表情。
それにしても、仮面のようにほとんど動かないこの表情はなんとかならないものか。
神でさえ、もう少し感情が表に出ている気がする。
よく観察していなければわからない程の反応に、Moonlessの幹部達の苦労が思い偲べるというもの。
お互いに引かない強情さのまま目を逸らしてなるものか、と、見つめ合うというよりは睨みあう。
その距離は手を伸ばせば触れる程の近さ。
凍てつく程に冷たい蓮の鋭い双眸と、怜悧な刃物のような光を宿す那智の双眸がぶつかった先で、火花が見えてもおかしくはない程の苛烈で静かな睨みあい。
たぶん絶対に蓮からは引かないだろう。と、那智は思っていたのだが…。
短く嘆息して先に視線を緩ませたのは蓮が先だった。
「今までご大層に隠し持っていたその首は、あんな雑魚共にくれてやる為だったのか」
「………」
蓮が先に引いた事にも驚いたが、その唇から放たれた言葉には更に耳をも疑った。
思わず沈黙した那智に、またも馬鹿にしたように鼻先で笑う蓮。
「聞こえなかったのか?お前のそのお綺麗な首を、こんなどうでもいい時にあんな雑魚共にくれてやるつもりだったのかと聞いたんだが」
「………」
蓮の質問の意図が読めない。おまけに、こちらが返事をしないせいか、不機嫌さが増しているように見える。
反応しない那智に、蓮の声が尚更低く底を這うようなものに変わった。
「…覚えておけ。お前を潰すのは俺だ」
射抜くような眼差しと腹底を揺さぶる程の強い声に、那智はクッと息を詰めた。気を緩めた瞬間に飲み込まれそうだ。
「その時には最大級の礼儀をもって俺の手で完膚なきまでに潰してやる。…くだらない気の緩みで他の奴らに潰される事は許さない」
“許さない”と言った瞬間、まるで幻惑のように、自分の喉元に歯を立てて食らいついてくる蓮の姿が脳裏に浮かんだ。思わず片手で喉元を覆う。
それと同時に、高揚する何かが心の底からジワリと湧き出してくるのを感じていた。
喉から手を離し、抑えきれない笑みを顔に乗せる。
「…やれるものならやってみればいい。そう簡単に俺は屈しませんよ」
「当たり前だ。そうでなければ面白くない。………お前が俺の前に跪く日が楽しみだ」
「それは永遠にないと言っておきましょうか」
その返しが満足いくものだったのか、蓮の瞳の色に僅かながらの温度が灯った。
そして、この戯れのような会話はここで終了だ。
こんな事を話す為だけに蓮が自分を連れ出したとは、全くもって思っていない。
会話を交わしている内に気が付いた。たぶん、本当の話はこれから。
「それで、本題は?」
先に那智が切り出すと、表情は変わらないまでも蓮の気配が少しだけ変わった。
何かを見透かすように、睨むでもなく嘲笑うでもなく、ただの普通の眼差しが那智を見つめる。珍しいと思えるほど、本当に普通の眼差し。
その数秒後、一瞬瞼を伏せた蓮は、すぐにまた那智に鋭い視線を向けた。
「これまでの冷戦状態を解除した今、お前達と慣れ合うつもりは一切ない。…だが、Vercheとその外野が邪魔だ」
「そうですね。特に外野が問題です。隙を見せれば高楼街自体が奪われる」
「あぁ、その通りだ」
「飲みますよ、その提案。神にも了解を得ています」
蓮が何を言おうとしているのかがわかった那智は、その言葉を出される前に肯定を返した。
これにはさすがに蓮も驚いたようで、深い溜息を吐いて前髪をかき上げた。
「お前達も同じ事を考えていたという訳か」
「当たり前でしょう。高楼街にとっての最善を考えるならば、それしか案はない。まさか先にそちらから言ってくるとは思っていませんでしたけどね」
「どういう意味だ」
「高いプライドが邪魔をして、一時休戦の提案なんてものをそちらから言ってくるとは思わなかったという事です」
「あまり見縊るな。そんな使えないプライドなんて持っていない。持っているのはMoonlessとしての誇りだ」
磨かれた黒曜石のような双眸。
そんな目でまっすぐに見つめられ、尚且つ眩暈がしそうなほど漢気のあるセリフに、ついうっかり絆されてしまいそうになった。
“もし神がいなかったら蓮の下についていたかもしれない”
その考えを持ったことがある事を思い起こさせる。が、今となってはその考え自体が可笑しい。
仮定話に意味はない。神と出会った今、それは絶対にありえない事だ。
誰も彼をも引き寄せる引力の強さは、神と同じ。
危険極まりない。
気持ちを落ち着かせる為に一度深く空気を吸い込んだ那智は、凪いだ海のように静かな眼差しを蓮に向けた。
「対Vercheが片付くまでは、という期限付きでの休戦、神の代わりにここで俺が約束しましょう。それでいいですね?」
「あぁ、充分だ」
目線だけで頷いた蓮を確認した那智は、余韻も残さず踵を返して歩きはじめる。
話が終了した今、蓮の方も那智を呼び止めるような事はなく…。
2人だけの小さな…、だが重要なその話し合いは、始まった時同様に唐突に終わりを告げた。
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