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運命の輪~A troublesome man~
Blue Roseが発足してから一ヶ月強。
その名前は、風の如き速さで裏高楼街全土に知れ渡った。
五月ともなると、天気の良い日中はそれなりに暑さを感じるものの、陽が落ちてしまえばまだ夜風は涼しい。
夜を生きる者にとっては、なんとも心地良い季節。
他人の目を惹かないように気配を押し殺して静かに歩く那智の行き先は、もちろんtrinityだ。
派閥として発足したばかりの幹部達には、まだまだやらなければいけない事が山ほどある。
こうなる前から暗黙の了解的に裏高楼街の東区を仕切っていた事もあり、誰からの異論も無く東区がBlue Roseの物となった事は助かったが、それでも、全土の内約3分1の面積となる東区を名実共に制圧するとなれば、それなりの土台を作らなくてはならない。
幹部、幹部候補を決め、一般メンバーを受け入れて把握し、更には東区内の各地域にも守護的な役割を果たす人物を置く。
派閥規則の制定、人事役割、それらの統率。
とにかく目が回るほどに忙しい。
Blue Roseが発足してからというもの、ほとんど家に帰っていない程の多忙を極めている。
でも、それもあと少し。この数日で、ようやくまとまりを見せつつある。
今夜は、今までよりもゆとりのある時間を過ごせるだろう。
そんな事を考えながら嘆息した那智の目の前に、スッと誰かが立ち塞がった。
スラリと背が高く、目鼻立ちの整った綺麗な顔をした青年。真っ赤なロングウルフが目を惹く。
何事かと立ち止まった那智は、無表情ながらに内心で警戒心を募らせた。
「へぇ…、お前がねぇ…」
僅かに身を屈め、遠慮なく那智の顔を間近から覗きこんでくる相手からは、殺気や敵意などは感じられない。
ただひたすら、好奇心という名のもとに那智を眺めまわしている。
「…俺に何か用でも?」
相手の顔は笑んでいるものの、それは優しさとは到底掛け離れている。だからこそ、那智の警戒は解けない。
敵意ではない。だからと言って好意的でもない。
目の前の相手から漂ってくるのは、
”見定める”
といった言葉がいちばん合うだろう空気。
面白がっている。そして、那智を目下に見ている。
もしかしたら、馬鹿にしているのかもしれない。
ただ、明らかに相手は那智の事を知っている様子だ。
……誰だ?
と眉を潜めたのは一瞬の事。
那智の脳裏には、とある人物の名が浮かびあがっていた。
この傲岸不遜なまでの不敵な表情。赤髪で綺麗な顔立ち。どう見ても一般人ではないとわかる強烈な気配。
天才的に頭が良く、あの”蘭”の相棒と言われている男。
情報屋のセイだ。
蘭の時も驚いたが、まさか、あのセイまでもがこんな形で自分の前に姿を現すとは思ってもいなかった那智は、暫しの間沈黙した。
「アイツが目をかける程の人間には見えないな」
そう言いながら、那智の顎先を人差指で掬い上げる。
セイの言う”アイツ”とは、もちろん蘭の事だろう。
目をかけられているかどうかはわからないが、それでも、今まで話した事もないセイにここまで馬鹿にされる謂われはない。
那智は、顎にかかっているセイの指先を手の甲で払いのけた。
「あなたが俺をどう思おうと構いませんが、俺の全てを知っているような発言はやめてもらえますか。そこまであなたと関わった記憶はありません」
さすがの那智も、ちょっとした苛立ちをおぼえた。
いくらあの有名なセイでも、立場的には初対面の見知らぬ相手だ。それなのに見下されて大人しくしている程、温厚な性格ではない。
そんな那智の態度をどう捉えたのか、セイは「ふぅーん」と呟いた後、いきなり那智の腕を掴んできた。
「ついてこい」
「え?」
たった一言と共に、返事も聞かずに歩き出したセイ。腕を掴まれたままの那智は、抵抗の甲斐も無く引っ張られてしまう。
本気で抵抗しようとすれば逃げられたかもしれない。
でも、セイにそんな無様な姿を見せたくないと自分のプライドが許さず、瞳を細めて警戒を露わにしながらも後をついていった。
連れて行かれたのは、地下にあるクラブだった。
ダーツバーやショットバーと比べるとゴチャゴチャしているクラブは、実はあまり好きではない。
扉を開けた瞬間から、大音量の音楽が耳に突き刺さる。
20歳前後の男女が雑多に入り乱れる間を、止まる事なく奥へ進むセイ。
いまだに腕を掴まれたままの那智はすぐ後ろを着いて歩いているのだが、自分のペースではない分だけうんざりしてしまう。
そして、いちばん奥の壁際に並んでいるベンチソファーに辿り着いた所で、ようやく腕が解放された。
「好きに遊べよ」
やはりどこか見下している感のある笑みを浮かべたセイが、いったい何を考えているのかわからない。
ここで遊ぶ気も無ければ騒ぐ気も無い那智だが、帰るという選択肢は与えられないだろう事がわかっているだけに、うんざりとした溜息を吐きだしてベンチソファに座った。
それを見たセイは、連れてきておきながら特に何かするつもりもないようで、カウンターの方へ行って飲み物を受け取っている。
自由気ままというか、なんというか…。
ベンチソファの後ろの壁に背を凭れかけさせて足を組んだ那智は、この意味のわからない茶番にいつまで付き合えばいいのだろう…とクラブ内を見渡した、その時。
「お前、見ない顔だなぁ?図々しく一人でここに来てんじゃねぇよ!」
目の前に何やら影ができたと思って顔を上げれば、突然降り注ぐ怒声。
20歳くらいに見える金髪強面の男が、真正面に立って那智を睨みつけているではないか。
いくら大音量とはいえ、人の怒鳴り声は耳につく。
案の定、それまで大騒ぎしていた身近の客がピタリと身動きを止め、次々に那智達のいる方向へと視線を向けてきた。
女の人が「やだ、巻き込まれたくない」と言って、横にいた友達の腕を引っ張って離れていく姿が視界の端に映る。
そんな雰囲気を感じ取ったのか、遠くの方にいる客も動きを止めて、一人、また一人…と視線を投げかけてくる。
こういう意味の無い喧嘩を売ってくる人間には言い返しても仕方がないとわかっている那智は、ただ黙って目の前の男を見つめるだけ。
男はそれすらも面白くないようで、「なんとか言えよ!クソガキが!」と更に喚きだす始末。
それに乗じて、嫌が応にも周囲の視線が増す。
どうしようかな…と考えた時、男の後方にいたセイの存在に気がついた。その顔に浮かんでいるのは意地の悪い笑み。
…そうか、これはセイの仕掛けた嫌がらせか。
おおかた、大勢の前で絡まれて恥をかかせようとでも考えたのだろう。そして俺がどうするのか、見定めようとでもいうのか。
こんな事で動揺するような小さい人間だと思われている事が癪に障る。
普段なら、軽くスルーして適当に場をしのぐ那智だったが、今回だけは違った。
相手があのセイという事もあってか、本来の気性である負けず嫌いの虫がムクムクと頭を起こす。
澄ました顔で意地悪く那智を見ているセイの鼻先をへし折ってやりたい。珍しく、そんな感情が湧き起こってきた。
…さぁ、どうしようか…。
いまだに何か騒いでいる男を見ながらそんな事を考えていた那智の脳裏に、ふとよぎるものがあった。
それは、このクラブの名前。扉の横のプレートに刻まれていたのは…
「…nebbia」
イタリア語で霧という意味の言葉。
那智は、すぐさま男の斜め後ろにいる小柄な青年に視線を合わせ、唇の動きだけでとある単語を伝えた。
その青年は、那智の唇の動きを読むと、素早くその場から移動して姿を消す。
これでなんとかなるだろう。
「おい!聞いてんのかよ!!」
ずっと無視していた那智に、とうとうキレたらしい。
男が手を伸ばし、座っている那智の襟首を掴んでグッと持ち上げてきた。
大人な分だけ相手の方が体格も良く、まだ中学生で、ただでさえ細身の那智は簡単に浮き上がってしまう。
苦しいのも嫌なので、とりあえずソファから立ち上がって苦しさを半減させる。ここまでくると、いい加減に嫌気も差すというもの。
「踊らされている事に気付いた方がいい」
「は?!てめぇ!俺の事馬鹿にしてんのか!!」
思わず嫌味を言ってしまった那智に苛立ちが限界を迎えたのか、男は固めた拳を振りかざした。
この弱そうな打撃を避けるべきか受けるべきか…、と冷静に考えている那智の顔をめがけて、第一打が振り下ろされる。…が。
パシッという音と共に、男の腕が途中で止まった。
「なっ!?ふざけんな!離………」
後ろから伸びてきた手に腕を掴まれてしまった男は、更に激昂して背後を振り向く。そして、行動を邪魔した相手を見てその顔を青褪めさせた。
先程までは怒りで赤くしていた顔を、今度は血の気が引いた青に染めている。
リトマス試験紙も負ける程の反応振り。
「…なんで…、朝永さん…」
男が口にした名前。朝永 。
20代後半くらいの、明らかに外国の血が混ざっている事がわかるチョコレート色の肌を持つ美丈夫。
その人物が、男の腕を潰さんばかりに握りしめていた。
「手を離すのはお前の方だ」
朝永は低い声でそう言うと、顎先で那智の首元を示す。そこでようやく那智の襟首を掴んでいた男の手が離された。
いきなりの解放感に那智がケホッと小さく咳をするのを見て、朝永の眉間に深い皺が寄る。
「忙しいのにこんな事で呼んでしまってすみませんでした」
那智が頭を下げると、男の腕を払いのけるように離した朝永は、その引き締まった大柄な体で男を押し退けて目の前に歩み寄って来た。
「悪いな。俺の店でお前に不愉快な思いをさせて」
「いえ、大丈夫ですよ。たぶんこれはテストだったと思うので」
「テスト?」
那智の言葉に朝永が不審そうな表情を浮かべた時、近くからわざとらしい溜息が聞えてきた。
気付けば、溜息が聞こえるくらいに店内が静かになっている。
大音量の音楽が、いつの間にか少量に絞られていた。
「まさかオーナーと知り合いとはね」
どこか呆れたような声と共に姿を現わしたのは、このテストの仕掛け人であるセイだった。
そう、セイが口にした通り、朝永はこのクラブのオーナーだ。
那智が先程の青年に伝えた単語は『オーナー』。
このクラブのオーナーである朝永とは、ちょっとした知り合いだった那智。
そして、言葉通りにオーナーを呼びに行ったのは、那智の知り合い。…というより、那智の事を敬愛して忠実に動いてくれる手駒の一人。
「さっき動かした男といい、朝永といい…。お前、中坊のくせにどこまで手を伸ばしてんだよ」
「あなた程の緻密な蜘蛛の糸は操れませんが、それなりに」
那智の交友関係、ツテ、知り合いを片っ端から調べたはずのセイ。
確かに、相手を見下していた分だけ雑な調べ方ではあった。だがそれでも洩れがあるなどとは…。
いや、洩れがあるというより、セイの情報網にも引っかからない場所で那智が動いていたという事だ。
顔と頭が良くて腕っぷしが強いだけの、裏高楼街にはそれなりにいるだろう少し能力が勝っているだけの中学生だと那智を舐めていたセイ。
蘭が気に入った意味を、今ようやく理解した。
「…面白い…」
唇をペロリと舐めながら挑発的に笑ったセイを見た朝永は、ついつい苦笑いを浮かべた。
「那智。お前、このテストに合格しない方が良かったんじゃないか?」
どうやらセイの事を知っていたらしい朝永の言葉に、那智は複雑な表情を浮かべる事しかできなかった。
その一件以来、セイは那智を猫っ可愛がりするようになった。
蘭でさえ「コイツとは喧嘩したくねぇ…」と思っているセイに見込まれてしまった那智。
「久し振りにお気に入りのオモチャを見つけたよ。あれは絶対に欲しい」と子供のように目を輝かせるセイを見た蘭は、思いっきり那智に同情した。
全てが極上、でもどこか危なっかしく、そして簡単には屈しない那智に、セイのS心がくすぐられたのだろう。
それだけではなく、たぶん那智は、セイにとって久し振りに出会えた認める事が出来る相手。
気性上、性格上、そして立場上、どうしても孤独になりがちなセイにとって、その心の渇きを癒せるかもしれない相手。
これから大変だぞ、と忠告した蘭の言葉の意味を那智が真に理解するのは、まだもう少し先の事。
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