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第2話-2

 今夜中に帰ると連絡したアガヒが帰宅したのは、結局、日付を跨いだ翌朝だった。  この時間帯なら、ウラナケはまだ眠っているはずだ。  アガヒは玄関で静かにコートを脱ぎ、いつもの習慣で、でも小声で「ただいま」と声をかけて室内へ入る。 「……ウラナケ?」  アガヒは、くん、と鼻先をひくつかせた。  自分とウラナケだけの巣に、ほかの獣のにおいが混じっている。  まさか仕事の逆恨みで襲撃でもされたか……。  そんな考えが一瞬脳裏をよぎったが、それはアガヒの杞憂に終わった。  アガヒが足早にリビングへ踏みこむと、ソファでうたた寝しているウラナケを見つけた。  ソファのアームレストから、ウラナケの長い足がにょきっと飛び出ている。 「…………幼女買春……」  ただ、その腹には、男所帯では見かけないレースの塊が乗っかっていた。  こんなに可愛いレースにお目にかかるのは、ウラナケが酔っぱらった時に穿いてくれた女物の下着以来だ。  だが、生憎、このレースは下着ではなく、可愛らしいドレスの一部分。  そのドレスは、仔兎の幼女が身につけていた。  ウラナケも、その幼女も、すやすやとよく眠っていて、起こすのが可哀想なほど幸せな表情をしている。 「……わぁ……めずらしい、希少種の虎さんだ……」  アガヒの視線を感じてか、その仔兎が目を醒ました。  桃色と血色を混ぜた瞳をぱちぱちして、アガヒを見上げている。  真ん中が薄桃色をした長耳で、全体的に雪のように白い。 「すごい、本当にいるんだ……、青虎とカスピトラとアムールトラの血がぜんぶ出てる。どういう掛け合わせなんだろ……すごい、おっきい、強そう、賢そう、立派なたてがみ、きれいな瞳、……資料で見るよりずっとかっこいい」 「失礼、お嬢さん。……どなたで?」  アガヒはその場に片膝をつき、寝惚けまなこの小さな淑女に礼儀を払う。 「……ぴ、ゃっ」  仔兎は、自分が寝惚けていたことを自覚したのか、耳を逆立てて、まだ寝こけているウラナケの腹に突っ伏して顔を隠す。  どうやら、この仔兎は、すこしばかり臆病な性質のようだ。 「すまない、こわがらせてしまっただろうか?」 「……あの、ごめんなさい、大丈夫です。……初めまして、こんにちは……わたし、玉兎族のユィランです……お留守の時に、お邪魔してごめんなさい……」  まだ五、六歳であろうユィランは、ウラナケの腹からちょびっとだけ顔を上げ、お尻のまんまる尻尾をぷるぷる震わせて挨拶をした。 「……んぁ? ぁ……ふぁあ……ぁがひ? おぁえり?」  遅れて目を醒ましたウラナケが、腕を伸ばしてアガヒを引き寄せ、「おかえり」とキスをする。 「ただいま。……こら、二度寝するな。説明をしろ。……ユィランが落ちる」  ウラナケの腹に乗っていたユィランがずり落ちるのを、アガヒが受けとめる。 「ありがとう」  ユィランはアガヒの手を借りて、よいしょ、と片足ずつソファから下りた。  かなり小柄で、まっすぐ立ってもアガヒの膝よりずっと下に頭がある。 「ほら、ウラナケ、起きるんだ」  アガヒはウラナケの黒子にキスをして、ぺろりと頬を舐め、いまにも寝息を立てそうなウラナケを揺り起こす。 「んー……ぁー……? 分かった分かった、起きる、起きるから……あいたた、変な体勢で寝てたから腰痛い、アガヒ、起こして……」 「ソファで寝るからだ」 「あのね、……ウラナケ、ソファで寝る前は玄関で寝ようとしたの……それを、わたしがソファまで引っ張ってきたんだけど……」  ユィランは、ウラナケの背中をよしよしと撫でる。 「ふぁあーあぁ……お嬢、ありがと。ついでに説明よろしく……」  アガヒとユィランの二人がかりで体を起こしてもらったウラナケは、大きな欠伸を隠しもせず、ユィランに説明を任せた。 「……わたしがしていいの?」 「うん、お嬢のほうが確実。俺、説明下手だし……」 「えっと、あの……それじゃあ、がんばって説明するので、聞いてください……」  ユィランは、ソファに座るウラナケの向こう脛にぎゅっとしがみつきながら話す。  アガヒが留守の間に、ウラナケとユィランは打ち解け、仲良くなったようだ。  しかも、聡いユィランは、ウラナケの物臭な性格を短時間で把握したらしい。  小動物のユィランは、滅多に触れ合うことのない大型肉食獣のアガヒにビクビクしながらも、ここまでの経緯を頑張って説明してくれた。  だが、そのユィラン自身も状況把握できぬまま逃げてきたらしく、説明は、終始、ユィランの身の上話となった。  ユィランは、玉兎族のなかでも名家中の名家、クェイ家の出身だ。  父親は現当主センジョ。母親はクェイ家の使用人。  いわゆる、妾腹の子供、というやつだ。  ユィラン自身もクェイ家の本宅で暮らしたことはなく、産みの母親と育ての父親の三人で、チャイナタウンの片隅で穏やかに暮らしていた。  ところが、今年の六月頃、その幸せは壊れた。  深夜、三人の眠る小さな家に何者かが侵入し、実母と継父を殺した。  犯人は捕まっていない。  だが、犯人の目的だけは分かっていた。  ユィランの命だ。  ユィランを探せ。そして殺せ。  侵入者たちはそう言っていた。  物音に気づいた養父が、ユィランだけを寝室の小窓から逃がしてくれた。  ユィランはその足で教会へ逃げこみ、今日までそこに隠れ潜み、親切な者たちの手によって庇護されてきた。  だが、ついには居所を発見されて、再び命を狙われることとなった。  ユィランは命からがらその場を逃げ出し、古巣のチャイナタウンで隠れ場所を探していたところ、ウラナケと出会った。 「ウラナケ、とっても足が速かったの」  ユィランはウラナケの膝によじ登り、ぎゅっと服を掴む。 「成り行き上、紹興酒と一緒に持って帰ってきちゃった」  ウラナケは膝に乗せたユィランの耳の付け根をぐりぐり撫でる。  面倒事を背負いこんだのはウラナケも分かっているが、かといって放り出すこともできない。 「なぁ、アガヒ……お嬢、ここに置いてやってもいいだろ?」 「そもそも、なぜ、お嬢なんだ」 「お姫様みたいだから」  愛らしいお顔、やわらかなドレス、ふぁふぁの産毛、よく動く立ち耳、まんまる尻尾。  真っ白の毛並みと、桃色の頬、薔薇色の唇。  守ってあげたい、ちいさなちいさなお姫様。  ウラナケは善人ではないけれど、極悪人でもないのだ。 「おねがい、アガヒ」 「……分かった」  アガヒは肩でひとつ息をすると、すんなり了承した。  ウラナケにお願いされて、断れるわけがない。  だって、アガヒはウラナケが可愛いのだ。

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