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第2話-3

「すぐ朝メシの支度するから、お嬢、適当にしてて」  くぁあと大きな欠伸をして腹を掻き、ウラナケはキッチンに立った。 「風呂に入ってくる」  仕事帰りのアガヒはバスルームへ向かった。 「…………」  ユィランはリビングのソファにちょこんと腰かけ、ぎゅっとクッションを抱きしめる。  初めてのおうちは緊張する。  ウラナケによると、ここは自宅兼事務所らしい。  でも、仕事の都合で同居している男二人の家、という雰囲気ではない。  ここは、たぶん、二人の愛の巣だ。  家具や間取りは、すべて獣人サイズのアガヒに合わせて大きいもの。  ただし、獣人規格の住空間ではあれども、標準的な人間サイズのウラナケの生活に不便がないように配慮されている。  そもそもベッドルームがひとつしかない時点で、二人がそういう関係なのだと推察できた。  いま、ウラナケがテーブルに並べている食器類も、取り出しやすい位置におそろいのカップが並んでいるし、昨日今日、始まったような関係ではないほど生活臭が漂ってくる。  よそ様のおうちなのに、なんだか落ち着く。  きっと二人の雰囲気がそうさせるのだとユィランは思った。 「ウラナケたちは、このおうちに住んでるの?」 「うん」  オープンキッチンに立つウラナケが返事をする。 「……二人は、お金持ちの人?」 「まぁ、家賃収入とかあるし、困ってはないかな」 「家賃収入……?」 「このアパルトマン、俺とアガヒの持ち物。地階から二階までは賃貸に出してて、三階から最上階は俺とアガヒで使ってんの。三階はゲストルームとかオープンスペースで、四階はアガヒの書斎とか倉庫。この五階はクローズド。俺とアガヒのプライベートルーム」  まさしく、ここは愛の巣だ。  客を招くのは三階だけで、四階と五階は二人だけの空間。  三階から五階までは、直通エレベーターと階段で行き来できるようになっている。  そもそも、アガヒとウラナケの暮らすこの区画は、旧市街地のなかでも高級アパルトマンばかりが立ち並ぶ。  建物の高さ、外観や景観、前庭に植える植物の種類、門番や監視カメラの設置、様々なことに制限と規約があり、古い建物になればなるほど賃料が高くなる。  さらに、この建物には、古きを大切にしつつも日々の暮らしが快適になるよう、リノベーションが入っている。  アガヒの身長が随分と高いから、間取りも全体的にゆったりとしていて、間口は広く、天井もすごく高い。  プールとジャグジー付きのプライベートテラスでは、夜景を楽しみながらパーティーができそうだ。  家具家電、調度品は機能的で使いやすく、それでいて重厚で頑丈。  ここまで獣人に暮らしやすく設計された家は少ない。 「仕事はなんでも屋」  ウラナケはそう言っていたが、それだけでこういう暮らしができないことは、そんなに世間の広くないユィランでも知っていた。 「お嬢、ご飯できたよ。……外で食う? 寒くね?」 「お部屋で食べます」 「テレビ、天気予報に変えていい?」  ウラナケは断りを入れて、ウェザーチャンネルに変える。  今日は十二月に入って最初の日曜日。  こんなに晴れているのに、昼から小雪が降るらしい。 「お嬢、ここ座って。高さ足りる? もう一個クッション増やす?」 「うん、増やして」  よいしょ……と、ウラナケに抱き上げられて、椅子に座らせてもらう。  食卓のテーブルや椅子も、大型獣人サイズだ。  人間の規格に合わせたダイニングセットより大きくて、天板の位置も高い。  アガヒが座るとちょうどのサイズだろうが、ウラナケも人間にしては背が高いようで、足がきちんと床につくし、不便もなさそうだった。 「ウラナケは背がおっきいね、何センチ?」 「たしか……去年の健康診断で計った時は、百八十六か、七か……そんなもん」 「いいなぁ……ぼ……わたし、身長、低いから……」 「いっぱいメシ食えばいいんじゃね? 俺もガキの頃すげぇ小さかったよ」 「がんばる。……でも、何歳から伸びるかなぁ……」 「俺が今年で二十五くらいで、伸び始めたのが十四か、五ぐらいかなぁ。ちなみにアガヒは今年三十五歳。……お嬢、コーヒー、紅茶、水、牛乳、ジュース、どれにする?」 「紅茶をください」 「ミルクは冷たいの? あったかいの? 先にカップに入れる? 後? 砂糖は?」 「冷たいのを先にカップに入れてください。お砂糖は自分で入れられます」 「了解。パンがないからホットケーキで勘弁な。……はい、お待たせ。あったかいうちにどうぞ。……ケトル、熱くなるから気をつけてな」  ウラナケは、あつあつのホットケーキを乗せた皿をユィランの前に置く。  ついでに、紅茶の葉を大雑把にティーポットに入れて、電気ケトルのお湯を注いだ。 「いただきまぁす」  キッチンへ戻るウラナケの背に声をかけて、ユィランはホットケーキの端っこまでしっかりバターを塗り、蜂蜜をたっぷりかけた。  そうする間に、アガヒがシャワーから上がってきた。 「アガヒの分、もうすぐ焼けるから。……あ、洗濯機、回しといてくれた?」 「あぁ。これ、持っていくぞ」  キッチンへ入ったアガヒは、ウラナケとひと言ふた言ばかり交わして、コーヒーメーカーのコーヒーをマグに注ぐ。  ホットケーキを裏返すウラナケのこめかみに唇を押し当て、野菜を盛りつけたサラダボウルとマグを片手に食卓へ着く。  ちょうど、ユィランの対面だ。 「朝ご飯、お先にいただいてます」  ユィランはぺこんと頭を下げた。 「どうぞ、ご遠慮なく。……コーヒー? 紅茶? ミルク? ジュース?」 「紅茶です。さっきウラナケが淹れてくれたんだけど……まだ熱いの……」  アガヒとウラナケは、客人への気遣いというものが実に自然だ。  突然転がりこんできたユィランにも自然体で接してくれる。  そして、恩着せがましくない。  そのうえでさりげなく親切にしてくれるし、無闇矢鱈とユィランを子供扱いしない。 「あいつ……、またこんなに茶っ葉を入れて……」  ユィランのカップに紅茶を注ぎながら、溢れんばかりの茶葉にアガヒが苦笑している。  しょうがないな……と言いつつも、どこか優しげな表情だ。 「……あのね、アガヒとウラナケってパートナー?」  自分の臆病さを自覚しているユィランは、頑張ってアガヒに話しかけた。 「君の言うパートナーが、夫婦という意味なら正解だ」 「わたしのおとうさんとおかあさんもそうなの」  獣人と人間が恋人同士になるのは、そう珍しいことではない。  けれども、夫婦となると別だ。  獣人と人間の夫婦で、こんなにも対等な関係性を築ける人たちは少ない。  そもそも、獣人と人間では、習慣や習癖、基本的な生活様式が異なるから、生活を合わせることそのものが難しい。  それこそ、家具の大きさや食べ物の味付けに始まり、ケンカした時の力量差、体格差、病気や怪我をした時の対処法、支配欲求、活動時間、夜行性か昼行性か……。  役所の手続きだって面倒で、ありとあらゆるものが異なってくる。  特に、超重量級の獣人との結婚生活は困難が多いと言われている。  繁殖はもちろんのこと、交尾だって難しい。  アガヒとウラナケの、どちらがメスで、どちらがオスの役割をしているのかはユィランには分からないが、獣人とセックスをして死んだ人間なんて、もうニュースにもならないほどありふれている。  そうした様々な困難を乗り越えて、こうして夫婦らしい生活を手に入れることのできるカップルはすごく少ない。 「二人はとっても仲良しなんだね」 「君は、見た目や年齢よりもずっと大人びた物言いをするし、観察眼も鋭いな」 「…………変なこと言ってごめんなさい……」 「いいや、気にしなくていい。家庭円満、夫婦仲が良いと褒めてもらえて光栄だ」  アガヒは嬉しそうに口端を持ち上げ、朝刊を広げる。  昨日、チャイナタウンでわりと目立ったらしいウラナケとユィランの逃走劇について、なにか載っているかと期待したが、目立った記事はなさそうだ。  ただ、二週間前に亡くなったユィランの親戚のことが訃報欄にあった。 「ユィラン、君の親戚のことが載っている」 「見せて」  席を下りたユィランはアガヒの席へ回ると、背伸びして新聞を覗き見る。  ちいちゃくジャンプするたび、ぴよっと耳が揺れて、ぽよっと丸い尻尾が上下する。 「……失礼」  新聞を閉じたアガヒは、ユィランを抱えて膝に乗せると、再び新聞を広げた。 「なになに? 二人とももう仲良しになってんの?」  ウラナケが、料理を盛った大皿二枚を手に運んできた。  ウラナケは、「うわ、漢字と英語……どっちも勘弁……」と眉を顰め、じっくりと一部の新聞を読み耽る日曜日のお父さんと娘に、「ほら、ご飯食べて」と急かす。  山のように積み重ねたホットケーキに目玉焼きやコールドミート。  たっぷりの朝食だ。  それらをテーブルの真ん中に置いて、ウラナケは「おかわりはここからどうぞ」とユィランに進める。  ユィランが遠慮しないよう、アガヒがそれぞれの皿に料理を取り分けた。 「どした? ユィラン……元気ない? 腹空いてない?」  アガヒの膝でじっと黙りこむユィランを、ウラナケが覗きこむ。 「二人は、どうしてわたしを助けてくれるの……?」 「困ってんだろ? じゃ、助けないと」 「幸いにも、こちらは厄介事を片づけるのが専門だ。君の力になるくらいはできるだろう。君も、頼る先がないのなら、遠慮なくこちらに頼るといい」  ウラナケとアガヒは、当然のようにそう答える。 「わたし、お金を持ってない……」 「いいよいいよ。俺ら、お金に困ってないし。それにさ……ほら、困ってる子供は見捨てちゃだめでしょ」  すこし眉を顰めて、ウラナケが笑った。  続けて、「困ってる子供を助けるって、まるで善人みたいじゃん? なんか俺たちすごくいいことしてる気分になれるんだよ。善行を積む機会って滅多にないからさ、まぁ甘えときなよ」と、ユィランに笑いかけて安心させる。  この仕事柄、他人を不幸にすることはあっても、人助けなんて滅多にできない。  ウラナケは上機嫌で、バターだけのホットケーキにハムと目玉焼きを挟んで食べた。 「そういうわけだ」  アガヒもその意見に不満はない。  ウラナケの言うことが、夫婦の総意。  ウラナケがしたいことを、アガヒがすべて肯定する。  アガヒは、ウラナケの為、ウラナケの意志なら、悪事も、善事も、なんでもする男だ。  そして、どちらかが背負いこんだ苦労は、二人で背負う。  仮に、アガヒがユィランを助けると言い出した場合でも、ウラナケはそれを肯定するだろう。 「わたしは……本当は、わたしが狙われた理由を知ってるかもしれない……」  すこし渋みの出た紅茶で喉を潤し、ユィランはそう切り出した。 「よければ、話してくれると君を助ける手がかりになる」 「国家人材育成研究プログラムって知ってる……? わたし、あれに選ばれたの……」 「……アガヒ」  ユィランの言葉でアガヒは納得したようだが、ウラナケには「?」で、アガヒに説明を求める。 「彼女は、国家が保護するレベルの大変優秀な子供だということだ」 「わたしは、来年から、その研究機関の研究生になることが決まっていて、専門は……、その、簡単に言うと、獣人と人外の脳の研究で……」  ユィランは、専門分野について、掻いつまんで説明する。  だが、難しい言葉を使おうとすると、ウラナケがどんどん不安な顔になって目が泳ぐので、簡単な言葉に置き換えた。 「その研究、一昨年から、いくつかの企業との合同で始まっていたな」 「そう、それです」  アガヒの言葉に、ユィランは頷く。 「将来的には軍も関係する研究で、クェイ家も出資していたはずだ。……だが、あの研究は、十五年ほど前に、倫理面の問題で凍結されたはずだが……」 「解凍されたの」 「ふーん……」  ウラナケは相槌こそ打つが、早々に理解を諦めて野菜をバリバリ食べた。  賢い人たちは喋ってるだけでもかっこいいなぁ、と二人を見つめる。 「……あの、もしかしたらなんだけど、……わたし、アガヒを知ってるかもしれないの」 「君とは初対面のはずだが?」 「ずっと前に、アガヒの写真を見たことが……」  古い文献を読んでいた時に、アガヒに似た人物の写真を見たことがある。  その写真の獣人は、十五年前の研究に参加しながら素晴らしい論文をいくつも書き上げ、十代半ばで博士号を三つ取得し、独立起業した。  その後、兵役に就くと同時に自社を売却。  従軍中には、特別な勲章を三つも授かった稀有な軍人として名を馳せた。  ただ、退役以降、現在までの消息は不明だ。 「なかなかに謎の人物だな。もう死んでるんじゃないか?」 「……死んじゃってるの……? ……じゃあ、アガヒじゃないの? ……ねぇ、ウラナケは本当のこと知ってる?」 「知らない。アガヒ、論文とか書いてたんだ? すげーね」  ウラナケは、アガヒの過去をまったく知らない。  十三年一緒にいて、アガヒからも特には聞かされていない。  アガヒの年齢的に兵役の経験があって、おそらく良家の出身で、高等教育を受けた優秀な人材だということくらいは、一緒に生活していればなんとなく分かる。  だが、ウラナケはそれ以上を知らない。  知ろうとも思わない。 「でもね、その論文と紐づけしてある人物データには写真もあって、ちゃんとアガヒが写ってたの。……なのに、いまのお名前とぜんぜん違う。どうして?」  もし、アガヒがあの研究の関係者で、偶然を装ってユィランに近づいたなら……。  ユィランは二人を信用できない。 「それは大丈夫だって。アガヒはイイ奴だから」  あまりにもアガヒが疑われるから、横合いからウラナケがフォローする。 「本当のお名前を言わないのに……?」 「あ~え~……なんか、大昔に、一回だけ聞いたような気がするけど……確か、えっと、ト、トゥ、ェ? オル……ぅるルえる? 分かんね。まず発音できない」  ウラナケは青虎系の言葉で発音を試みるが、途中で諦める。  獣人や人外は、それぞれ独自の言語を持っていて、彼らはそれで意思疎通する。  そうするのが、もっともストレスがないからだ。  ウラナケも、アガヒに教えてもらって青虎系の言語を喋れるには喋れる。  だが、アガヒからは、「お前の青虎語はたどたどしすぎて、幼児とおしゃべりしている気分になる」と苦笑いされて、その舌っ足らずの可愛さのあまり、ぎゅうぎゅう抱きしめられるレベルだ。  自分の伴侶の本名を知らなくてもウラナケは困ったことがないから、気にしたことすらなかった。 「お名前は大事だって、おかあさんが言ってた……」 「大事なんだろうけど、十三年間、一回もそっちの名前で呼んだことないしなぁ。いま、アガヒがアガヒって名乗ってて、俺もそれで呼んでるし、アガヒもそれで返事する。それでいいと思うんだけど……アガヒ、お前、本名で呼ばれたい?」 「いや、いまのままでいい」 「だってさ」 「……どうしよう」  自分とは違う感覚で生きている二人に、ユィランは戸惑う。 「大丈夫だって、知らなくても生きていけるから」  ウラナケは、良く言えばさっぱりしているが、悪く言えば執着がない。  好きな人のことならなにもかも知りたいと思うような生き方をしていない。  いまが楽しくて幸せなら、それでいい。  でも、それは、ウラナケのそういう性格を、アガヒがそれとなく補ってくれているからだ。  だから、こうして思い悩まずに生きていける。 「俺とアガヒはそれで成り立ってるしな。ユィラン、……なんか怒ってる?」 「わかんない……ウラナケとアガヒが仲良しなら、それでいいんだけど……」  ユィランはなんとなく釈然としない。  なのに、言いたいことを上手に言葉にできない。 「ユィラン、俺が、過去に君と同じ研究に携わっていたのは事実だ」  泣きそうな顔のユィランを見かねて、アガヒは自分の過去を認めた。  過去をおおっぴらにすると、それなりに権力のある実家から圧力をかけられたり、軍関係で揉めることが多く、基本的に、アガヒは過去について口外しないことにしていた。 「ごめんなさい、……わたしが変なこと訊いたから……」  ユィランは、長い耳をしょぼんと項垂れさせる。 「君は自分の身を守るのに必死なだけだ。……だが、俺は、君に危害を加える立場ではない。あの研究とも、軍や国とも、随分前に繋がりを断っている。安心してくれ。……それよりも、君がいま狙われている理由を考えるべきだ。研究が本格的に始動するのは来年からだろう? いますぐに君が狙われる理由は、ほかにあるんじゃないか?」 「それが分からなくて……だから、お願いします、助けてください……」  ユィランはぎゅっとスカートを握りしめ、俯く。 「大丈夫、絶対に守ってやるから」  ウラナケは、ユィランと同じように落ちこんだ顔をして、けれども力強く頷く。  ウラナケはもう大人だから、子供のユィランを守るのは当然だ。 「俺のことを信じられないなら、ウラナケの言葉を信じればいい。君も、ウラナケのことなら信じられるだろう?」  ウラナケは物事をあまり深く考えないけれど、この優しさだけは本物だ。  自分のことのように心を砕いて、ユィランを守ろうとする。 「……ありがとう、ごめんなさい……」  なんだかウラナケの人の好さにつけこんでいるようで、ユィランは胸が痛んだ。

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