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第5話 偶然か運命か

桐生要(きりゅうかなめ)、木の桐に、生きる、要約の要で要」  唐突に言われて、きょとん、とする。俺は、触っていたふかふかの敷物(ペルシャ絨毯とか言うヤツじゃないだろうか)からそろそろと身体を上げて、ソファに腰を落ち着けた。うわ、何だこの反発力と包容力! これも、絶対高いヤツだ! 鼻をくすぐるコーヒーの良い香りにも、落ち着かなくなる。傍に置かれた茶菓子は、俺でも知っている有名チョコレート店の物だった。当然、手なんて付けられない。 「俺の名前、だよ。俺だけが知っているのはフェアじゃないから教えておくね。要って呼んでくれて良いよ。俺も、君の事を学君、って呼んで良いかな?」  微笑まれて、思わず後ずさる。さっと、視線を足元に落とした。美と言う魔力から逃れようと思って、だ。 「本当に、傷付くなあ、その態度。俺としては、腹を割って話したいと思っているんだけど」  どさ、と音がしたかと思うと、ケイもとい桐生が隣に座って来る。いやいや、この家のソファは他にもいっぱい腰掛ける所あるだろ!? 何故に隣!? 落ち着かねえっての! 思いながら、俺は精一杯ソファの端に寄る。そもそも端に座っていたから、気持ちの問題だ。 「……一応、名誉の為に言うけどね、名前は、この間、君が、自分から教えてくたんだよ」 「うわ、マジか! あ、いや、マジですか?」  一口、自分のコーヒーを口した桐生は徐に切り出した。もたらされた事実に思わず素が出る。慌てて言い直すと、桐生は小さく口の中で笑った。うわ、その顔もすげえ綺麗……。 「敬語、使わなくて良いよ」 「う、その……じゃあ、お言葉に甘えて」 「うん。その方が良い」  ふんわり、と言う言葉が正にぴたりとはまる表情の変化だった。この男は、綻ぶように微笑うんだな、と思った。気を引き締め直したつもりだったのに、ぼーっと見惚れて、俺は言葉を無くした。ことん、とコーヒーカップを置く音に、はっとする。 「この間も、言われたし、何度も見つめられたけど、本当に、俺の顔が好きなんだね」  ズバリ言われて、ひえ、と声にならない悲鳴が喉の奥から漏れる。何を言った、あの時の俺!! 正直過ぎるだろう!? しかし、桐生の顔を見ると、呆れた感じは無くて。楽しそうに、ずい、と俺の方に顔を寄せて来る。 「この間みたいに、もっと、近くで見てくれても良いんだよ」 「この間……、うう、その、俺、実は、この間の事、全然覚えて無くて……」 「うん、そうだろうね。酷く酔っていたから」  顔を背けながらぼそぼそ言う俺を、無理に自分の方へ向けようとする事も無く、桐生は小さく頷いて笑った。その自然な態度に勇気を貰って、深々と頭を下げる。 「本当に、すみませんでした。……その、多分、介抱してくれて、宿まで貸してくれたのに、黙って帰って……」  何となく惨めな気分で俺がぼそぼそと続けると、桐生は、首をゆるりと左右に振って、同じくらいゆるりと唇を開いた。 「別に、それは、怒っていないよ。まあ、待って、って言ったのに行ってしまったのには参ったけど。お陰で探し出すのに、こんなに掛かってしまった」  確かに、あの時から、既に三週間と言う期間が空いていた。俺が、やっと忘れ掛けていた所だったと言うのに。やっと日常に戻り掛けていた所だったのに。何故、俺を、恐らく関係を持ったでもない相手を、この男は、探すような真似をしたんだろう。それが謎だった。……俺が必死になって探すならともかく。 「俺、口は堅いから。誰にも言わないし。そもそも、俺もクローズドだから」  両手の指先を合わせて見据えながら言う。隣で、はー、と大きな溜め息が聞こえた。ふるふる、と形の良い頭が揺れるのが視界の端に映っていた。 「それが、誤解だって言いたかったんだ」 「誤解……?」  桐生の言葉を復唱して、訝しむ。誤解、とはどれの事だろう。 「俺は、そもそも、基本、オープンだからね。別に、学君が誰かに話しても、問題は無いんだよ」  言われた事が一瞬理解出来なくて、頭の中でセリフを繰り返す。オープン、と言うのは、ゲイだと言う事を隠していない、と言う事だ。逆に隠している、普段は一般人に擬態している同性愛者をクローズドと言う。俺みたいなタイプだ。そこまで考えて、ようやく理解出来て、うえ、と声が漏れた。 「えっ、マジで!?」  驚き過ぎて顔を桐生の方に向けると、柔らかい顔で微笑った桐生は、静かに頷いた。その穏やかで何処かスマートな動きに、見惚れる。 「流石に大っぴらに自分の性的指向を言ったりはしていないけど、家族や友人は知っているよ」 「なら、何で……?」  益々疑問が強くなった。なら、関係(何も無かったとは言え、家にまで泊めて貰った事実は拭えない)を黙っている必要が無い、と言うのなら、一体、どうして俺をあんなに必死で探し当てたりしたのだろう。しかも、自分の足を使ってまで。この男くらいの立場なら、興信所なり何なりを上手く使って、俺を探す事なんて簡単に出来ただろうに。いや、そこまでする気が無かった、と言う事か。たまたま、あの時、俺を見掛けたから追い掛けただけ、だったのかもしれない。それでも、何で? 「どうして、君を探したのか、って事かな?」  俺の疑問を確実に理解している質問に、こくん、と頷く。桐生は、小さく口元だけで笑うと、厳かにその形の良い唇を開いた。 「会いたかったから、以外に、答えがあるかな?」  息を呑む。言われた内容が、余りにも馴染みが無くて、理解が追い付かなかった。ごくん、と唾を飲んで繰り返してみる。 「会いたかった、って、俺に?」 「そう。学君に。あの日、君は本当に直ぐに酔っ払ってしまって色々話す事も出来なかったし」 「色々話す……でも、その……」  桐生の声は、穏やかでありながら、やっぱり、何処か甘かった。耳から揺さぶられて頭の中がぐずぐずになってしまう心地がする。何とか頭をしゃっきりさせる為、右手の人差し指で目頭を揉む。少し、気分が楽になった。 「まどろっこしい物言いは苦手だからはっきり言うとね、君に、とても興味があるんだ」 「俺に!? あ、珍獣的な!?」  次いで言われた言葉も普段全く聞かないセリフで、思わず振り返って問い掛ける。正直、それしか考えられなかった。確かに、桐生のような明らかな上流階級の人間から見たら、俺のような、いかにも一般的な中流階級の成人男子は珍しいのかもしれない。 「……どうしてそうなるかな。君は、自己評価が低いって言われた事、無い? 君の事が、恋愛的な意味で、気になっているから、だよ」 「う、嘘だあ!」  はっきりとした言葉を言われ、俺の頭はキャパオーバーを起こした。とっさに否定の言葉が口から漏れる。それには、桐生は苦虫を噛み潰したような表情を見せた。どきん、と胸が鳴る。この男も、こんな顔をするんだ、と思ったからだ。そう、その人間的な反応を見れて、俺は嬉しいと思っていた。 「また、随分とはっきり否定するね、人の気持ちを」 「だって……俺だろ? こんな、何処にでも居るような、そんな、ホント凡庸な男を……」  俺が自己評価を正しく口にすると、困ったように小首を傾げた桐生は、一瞬、目線を下げ、それから、この部屋に来て初めて俺を見据えて、ゆったりと微笑った。どきん、とまた心臓が跳ね上がった。びっくりする程、真っ直ぐな視線だった。これは、逸らせない物だ、と思った。 「その、染めてないさらさらの髪が、綺麗だな、って思った」 「え?」  視線が、頭の上から、徐々に肩口に下がって行く。そのまま、腰回りまで来て、俺は座りが悪くなった。 「ちょっと猫背気味の肩から腰のラインがセクシーだなとも感じたかな」 「ちょ、」 「目を見た瞬間、吸い込まれそうな淡い色合いに心を奪われたよ」  一瞬、下腹部をさまよった視線は、直ぐに上げられ、目を合わせられる。 「な、何言って……」 「薄い唇を、腫れるぐらい吸ってみたいとも思ったな」  そして、口元まで視線が来た所で、俺は、ぱ、と慌てて両手で唇を隠した。 「……っ、」 「ちょっと上向きの鼻は、赤くなると余計に可愛いよね」  次々に上がる称賛の言葉に、俺は、顔を真っ赤にして俯くしか無くなる。勢いよく両耳を両手で覆って、それ以上の言葉をシャットアウトした。 「も、もう、勘弁してください!!」 「……まだ、言い足りないんだけど、まあ、君を追い詰めたい訳じゃないからね」  そう言うとコーヒーカップを手に取り、桐生は形の良い唇でその縁を覆い、中身を口に含んだ。くっきりと目立つ男らしい喉仏が、一つ、二つ、上がり下がりして、飲み込んだのが分かる。同じタイミングで、俺も、たっぷりと溜まった唾をごくり、と飲む。むせそうな感覚があって、慌てて、目の前に置かれていたコーヒーカップの中身を口に含んだ。って、うわ、これ、めっちゃ美味い。苦味と酸味が絶妙で、何て言うか、本当に俺好みだった。感動ついでに、腹が減っていた事を思い出して、茶菓子にそろそろと手を伸ばす。程良い食感のチョコレート菓子は、甘過ぎず、苦くなく、ほろほろと口の中で溶けて行った。びっくりするぐらい美味いが、儚い菓子だな、と思う。まるで、そう、この瞬間のような脆さだった。沈黙が、俺達を包んでいた。俺は、コーヒーカップを揺らして中のコーヒーをくるくると回す。しばらくして、ぎゅ、と唇を噛むと、桐生の方に少し身体を向けた。桐生は、その長い手のリーチを生かして、コーヒーカップをガラステーブルの上に置き、俺に向き直る。俺も慌てて手を伸ばし、その隣にカップを置いた。 「……じゃあ、」 「うん?」 「じゃあ、何で、あの日、手を出さなかったんだよ……」  そう、それが、俺が一番気になっていた所だった。何よりも強く俺の心のオリになっていた。むしろ、傷と言うべきか。 「そりゃあそうでしょう。あんなに泥酔した子に手を出すなんて、紳士の風上にも置けない」 「紳士……」  言われた言葉が理解出来ない。紳士、って何だっけ? 真面目なヤツって事? ジェントルマンの和訳、だったっけ? そもそも、ジェントルマンって何? 「これでも一応、紳士なんでね、口説くなら、フェアに行きたいと思ったんだ」 「フェア……そ、そんな事で……」 「そんな事? 重要な事だよ」  心外な、とでも言いたげな顔で、桐生は続ける。けれど、俺は桐生の言葉に納得など出来なかった。だって、俺は、ショックだった。本当に、すごく、辛かった。自分の身体が綺麗だった事が、何一つ傷一つ無かった事が。まるで、拒否されていたような白い背中が。 「俺が! 俺が、どれだけ落ち込んだかと!」 「……もしかして、手を出して欲しかったの?」  驚いたように問われて、一瞬言葉に詰まる。けれど、言わなければ分からないと、俺は口を開いた。 「じゃなきゃ、あんなに、飲んだりしない……」  いや、泥酔する程飲んだのは、混乱していたのが一番だったが。心の何処かで期待は、していた。そう、期待していたのだ。だから、手を出されていなくて、あの翌朝、必要以上に混乱したのだ。もし、一夜の過ちがあったなら、俺は多分、卑怯にもそれを盾に桐生に関係を迫っていただろう。そこまでしなくても、何かしら、別のアクションは起こしていた筈だ。逃げ帰るのでは無く。 「なるほど。そこからすれ違っていた訳か……」  不意に、はー、と深い息を吐いて、桐生は両手で顔を擦った。妙に爺臭い動きな筈なのに、桐生がやると、まるで映画のワンシーンのように美しかった。ぼっーっと、また見惚れてしまう。ふ、と口元を緩めた桐生は、促すように俺を見て来る。 「あ、だ、だから、てっきり、俺は、」  言いよどむ。口にすると、憶測が、事実になってしまいそうで、怖かった。 「うん。てっきり?」 「俺は、……俺は、アンタに、相手にされていないんだと……手を出す魅力も無いんだと……」  言葉で促されて、一気に口にする。目が、潤むのが、自分でも分かった。慌ててごしごしと目元を擦ると、がし、と腕を掴まれた。 「本当に、君は、どれだけ可愛い事を言うんだろう! 俺がどれだけ我慢したか分かっているの?」  しっかりと目を覗き込まれて、その黒々とした目の中に、情欲が滲んでいるのが見て取れて、歓喜が胸を満たすのが分かった。俺が、俺だけが、目の中には、居た。嬉しくて、苦しくて、どうして良いか分からなくて。だから、可愛げの無い憎まれ口を叩いてしまう。 「我慢なんて、しなきゃ良かったんだ……」  その瞬間、ぐい、と力任せに抱き寄せられて、息が止まるかと思った。抱擁は、一瞬だったのか、それとも、何分かだったのか、ちっとも分からなかったけど、放された後、綺麗な笑顔で微笑まれて、更に俺の心臓には負担が掛かる。 「……なら、つまり、本気で、口説いて、良いって事だね?」  きらり、と桐生の黒目がちの目が光ったようだった。真剣なその表情は、余りにも綺麗で、俺は、心臓が壊れるんじゃないかと不安になる。 「あう、あ、それは……ちょ、ちょ、ちょっと待、」 「待てない」  俺が必死に言葉を紡ごうと口を開くと、遮るように俺の手を取って、桐生はきっぱりとそう言った。 「あの日から、君が、ここに居座って、俺を引っ掻き回すんだ」  桐生は、手にした俺の手を引くと、自分の胸に押し付ける。どくん、どくん、と速く脈打つ心臓の音が手の平越しに感じられて、俺の心臓も早鐘を打っていた。と、不意に、指先に唇が触れる。 「っ!!」 「あの日から、一日たりとも、君を思わない日は無かった。落ち着かなくて、苦しかった。本当に、どうしてそのまま帰してしまったんだろう、何故あの場で直ぐに追い掛けなかったんだろうって何度後悔したか知れない。あの後、時間を見つけてバーにも行ったけど君は居なくて。二度と会えないんじゃないかと、思うと、身が切られそうだった。もし二度と会えなかったら、俺はきっとおかしくなってしまうんだと思っていた」  切なげな黒い瞳が、ひたすら、俺を、俺だけを見ていた。そこには、明確な恋慕が有って。喉がからからになる。息が苦しくなって、目が潤み、頭がぼーっとして来る。どうにも、こうにも、制御が出来なかった。 「この病を治せるのも酷くするのも、君だよ、学君。君だけだ……」 「そ、そんな、の……」  俺のセリフだ、と思う。あの日から、どれだけ俺が桐生を想っていたか。何度あの日に返りたいと後悔したか。初めから、全部やり直したいと思っていたか。  でも、と不安が胸を過ぎった。必死に手を取り返して俯く。息を整えながら、回らない頭を何とか回転させる。くるり、見回すと、広いリビングダイニングが見て取れた。そうだ、と思う。 「そんなの、何とでも、言える。アンタみたいな極上の男は、俺みたいな、何処にでも居る男を相手にしなくても、」 「黙って。聞き捨てならないな。例え君自身でも君を侮辱するのは、許せない。俺が、惹かれた唯一なんだ。もっと大事に扱って」 「あ、う、……」  柔らかいけれど厳しい声で言葉を遮られて、どうして良いか、分からなくなる。桐生が、俺をどれだけ大事に想ってくれているか、はっきりと示されて、息が詰まった。それを見て、桐生は、まるで壊れ物か何かのように、俺の背中をぽんぽんと優しく叩く。俺が何とか息を普通に戻せたのを確認すると、ソファから降り、ゆっくりと俺の足元に跪いた。桐生は、信じられないくらい、そう言う仕草が似合う男だった。 「俺の性格が好みじゃないって言うなら、仕方が無い。かなり強引な性格だって、自分でも自覚している。こんな性格だし、嫌われる事もある。でも、顔が好みだって言うなら、一度くらい、試してみないかい?」 「試し……て……?」 「君の、恋人候補に、上げて貰えないかな?」 「こ、恋人!?」 「うん、付き合って欲しい」 「つ、付き合……っ!?」  ぱくぱくと金魚のように口を開閉するしか、俺には出来なかった。冗談だろうか、と言う思いが最初に浮かんで、しかし、桐生の真剣な顔にその思いを阻まれる。それにしても、急展開過ぎた。一夜の過ち、良くて、セフレか都合の良い相手、にでもなれれば良いな、くらいしか考えて無かったのに、恋人だなんて! 「本当は、結婚を前提に、と言いたい所だけれど、流石に、それは重過ぎるだろうから、とりあえず、恋人候補で、どうかな? 自分で言うのも何だけど、顔は悪くないと思うし、収入もそれなりにある。性格には多少の難はあるけど、恋人の事は誰よりも大事にするタイプだ。お買い得だと思うよ?」 「け、結婚……!?」  次いで言われた言葉に、俺は、完全に思考停止状態に陥った。結婚、なんてゲイの俺には、遠い世界の事だった。パートナー制度、と言う物があるにはあるが、クローズドの俺には、敷居が高過ぎる話だ。目の前が、くらくら、して来る。 「ああ、言い忘れていた。経験は、それなりにあるから、夜の生活では、満足させられると思う。もちろん、君が望めば夜と言わず昼でもいつでも、だけど」 「なっ!?」  ぱちん、とウィンク付きで楽しそうに言われて、俺は真っ赤になった。思考能力が追い付かない所の話じゃない。頭から煙が出そうだ。ギクシャクと身体を強張らせる俺を見て、桐生は、困ったように微笑った。 「参ったな。本当に、初心なんだね。そんな可愛い反応をされると、益々、誰かになんてやれないな」  右手を取られたかと思うと、恭しく深爪ぎみの爪先に唇を寄せられて、ぷしゅー、と俺は顔から火が噴き出るかと思った。あわあわ、と唇を震わせる。ふんわり、と桐生が綻ぶように微笑い掛けて来て。心臓が、幾つ有っても足りない、と思った。それでも、何か言わなければいけない事は十二分に分かっていたから、何とかわななく唇を開く。 「お、俺はっ!」 「うん」 「ホントに、普通で、何の取り柄もなくて、ただの会社員だし、酒も弱いし、性格ブスだし、」 「こら。自分を卑下しない」  思わず飛び出た否定の言葉を遮られて、困ってしまう。確かに、俺は自分を卑下するのが、得意だった。少なくとも、今までは。でも、それは、どうやら改めなくてはいけないらしい。きょろきょろ、と目をさまよわせ、言葉を探す。 「あ、その……ほ、ホントに、経験も無くて、」  結果、事実だけを伝える事になった。気恥ずかしさに泣きたくなる。けれど、桐生はただ頷いてみせた。 「うん」 「面倒、だと思う、ケド……」 「むしろ、自分色に染められるなんて、男冥利に尽きるけどね」  本当に嬉しそうに桐生が微笑うから。胸が、ぎゅーっとなる。息が出来ない程、苦しくて、でも、それは、決して、嫌な感じじゃなくて。 「だから、その、えっと、」 「イエス? それとも、はい、かな?」  俺が言いよどんでいると、桐生がそんな言葉を言う。その内容を反芻して、こんな真剣な会話をしているってのに、俺は、ぷ、と噴き出した。 「何、それ。おんなじじゃねーか!」 「今は、それしか聞きたくないんだ。ここが壊れてしまうからね」  とんとん、と左胸を、心臓の辺りを叩く仕草は、本当にキマっていた。憂えるような表情も相まって普通なら直ぐにでも応えてやりたくなる雰囲気だった。でも、そんな王子様みたいな仕草をされても、俺は照れ臭くて、困るだけで。 「アンタ、想像以上に、クサい……」  相変わらず、口からはそんな言葉が漏れていた。 「オーケー、こう言う発言は苦手、なんだね。以後、気を付ける」  軽く口を押さえて、桐生は神妙に頷く。それから、また、じっと俺を見つめて来る。 「……その、」 「恋人候補として、考えて、貰えるかな?」  俺が言葉を探していると、すかさず、口を挟んで来る。本当に、絶妙なタイミングだった。思わず頷いてしまうくらいには。ぱ、と桐生の顔が期待にか輝く。それを見て、俺は、しっかりと、口を開いて言葉を吐き出した。 「……俺で、ホントに良ければ、よろしくお願い、します」  俺が、小さく、ぺこり、と頭を下げると、どさ、っと音がして、ソファが深く沈んだ。桐生が、両手で顔を押さえながら、俺の隣に深く腰掛けていたのだ。 「はーーー、」  おまけに深々とした息まで吐かれて、俺は、びくっと、震える。口からは困惑の声が漏れた。 「えっ、えっ!?」 「……ごめん、緊張していたから」  苦笑しながら言われて、もっと驚く。あんなに厚顔不遜な態度だったってのに。 「あ、アンタが!?」 「そりゃあ、一目惚れした子に告白しようとしたら逃げられて、何とか捕まえたのに、また、色々な理由で跳ね除けられそうになったんだから、緊張もするよ」  苦笑で、顔がくしゃくしゃになるが、それすらも、桐生は綺麗だった。今までで一番、人間っぽい顔を見せられて、俺は逆に胸がドキドキするのを抑えられなかった。 「そう、なんだ……って、一目惚れ!?」  桐生の言葉を頭の中で反芻して、咀嚼して、ようやく理解して、俺の口からは驚きの声が漏れる。それをどう捉えたのか、桐生は不安げに俺を見て来た。 「一目惚れは、信じない方?」 「まさか!」  即座に否定の言葉を告げる。だって、俺も、そうだったから。桐生は倒していた身体を起こすと、俺の方に向き直った。そっと、本当に大事な物のように、俺の手をすくい上げる。 「一目で、心を持って行かれたよ」 「桐生、さん」 「要、って呼んで欲しいな」  乞われて、ちょっとだけ、口ごもる。照れ臭くて。 「要、さん……」  でも、呼んでみたら案外しっくり来る名前だった。要、要、要、心の中で何度か呟く。 「うん。学君」  今までで、一番、しっかりはっきり、そして愛おしそうに名前を呼ばれて、歓喜が身体中を巡る。唇が震えて、目の奥も熱くて、どうにかなりそうだったけど、俺はこれだけは言わなくては、と思っていた。 「俺も、一目惚れ、だった……アンタに、全部持って行かれた」  要の黒々とした目が、輝きを増す。眩しくて、綺麗で、そして、初めて逸らしたくない、と思った。 「それは……嬉しいな。じゃあ、お互い一目惚れ、って事か。ふふ、まるで魔法のようだね」 「魔法……だと、困る」  言われて思わず否定の言葉が口からは漏れていた。要は少し考えた後、軽く首を傾げた。 「魔法は、いつか解けて、しまうから?」  俺の言葉を直ぐに理解してくれる事が、堪らなく嬉しかった。 「うん。」 「なら、二人で、いつまでも、解けないように、重ねて行けば良い。こんな風に」  そっと、手を重ねられる。視線で促されて、俺は、もう一方の手をその上に重ねた。更に、その上に要の手が重なる。がっしりと積み重ねられた両手は、解ける気配が無くて、嬉しくなった。 「うん……うん!」  しっかりと頷きながら、俺は思った。始まりは一目惚れで、不安要素もたくさんあって、まだ、不確かな魔法だけど、解けないように、積み重ねて行こう、と。これから、二人で。そう、二人で。

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