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第9話 フランスからの便り

 決裁を待つ書類に事務的に判を押し続けていたら、一体何処から紛れ込んだのか、葉書が一枚混じっている事に気付く。フランス語で書かれたそれに、さ、と目を通して小さく息を吐き出した。結婚しました、と簡潔に書かれたそれは、かつての恋人からの物だった。そして、ふと、思う。 「これは、本格的に、不味い……」  思わず口から漏れた声は、酷い疲れと焦燥と別の何かを含んでいた。途端に、第一秘書の荻山が席から立ち上がって近付いて来る。 「どうかなさいましたか?」  神妙な顔で問われて、けれど、俺は、答えられなかった。じ、と、荻山の彫りの深い異国の血を感じさせる顔を眺めて、思う。果たして、この間、sexしたのは、いつだろう、と。 「何か、問題が? 午後からのミーティングは中止にしますか?」 「問題無い……いや、申し訳無いが、中止に出来るだろうか?」  いつものように返事をし掛けて、提案してみる。正直に言うと、今は仕事の事は考えたくなかった。何一つ。すかさず荻山が手帳を取り出し、ぱらぱら、とページを捲りながら予定変更を苦慮している様子を見て、発言を後悔する。  だが、と思う。机の上に置かれた葉書を見た。昔の恋人は、フランスに戻り幸せを謳歌していると言うのに、今の俺はどうだ。右にも左にも山積みになった書類、手元にはタブレット、目の前にはPC、その隣には電話機だけだ。つまり、仕事、仕事、仕事、仕事、仕事、だ。 「すまない。少し休憩を取りたい。予定が決まり次第メールで連絡をくれ」  暗に退室を促すと、荻山は直ぐに察したらしく、席へと戻り幾つかの書類とノートPCを持って静かに出て行った。秘書室にでも行ってくれるのだろう。彼女の一番の良い所は、あの察しの良さだ。五年と言う長い期間、俺専属のそれも第一秘書として働いてくれているだけはある。第二秘書の畠澤も有能ではあるが、彼女の比じゃない。彼女に辞められたら、俺は、仕事量を、今一度見直さなければならなくなるだろう。ああ、彼女にも、近い内に特別休暇を言い渡さなければ、と思った。 「いや、待てよ。二週間前に土産を貰ったな……」  デスク右側の一番下の通称『何でもbox』を開いてみる。少し探すと、案の定、彼女の二女が俺の為に、と買ってくれたらしい『幸運のお守り』が見つかった。正確には、ガムランボールと言い、身に着けていると願い事が叶う装身具だ。揺らすと、何とも言えない神秘的な音がした。癒される。 「って、そうじゃない!」  思わず自分で自分に突っ込んでしまった。彼女への特別休暇は必要無いと分かり一安心したが、問題はまだ残っていた。ここの所、まともに休みを取った覚えが無いのだ。眉間を強く押してみる。酷く凝っていた。ついでに、肩回りも回してみる。こちらの凝りも酷い有り様だった。二の腕を掴んでみると、以前より、明らかに筋肉が落ちていた。果たして、前回、ジムに行ったのはいつだったか。その後によく訪れていた可愛い子の居るマッサージ店にも、当然、足を運んでいない。  そうだ。俺に圧倒的に足りていないのは、癒しだ。  座り心地に拘って特注させた椅子から立ち上がり、窓際へと向かう。ブラインドを除け窓の格子に腰を下ろす。オフィスは高層階にあるのに、秋の気配を感じた。要するに、冷たかったのだ。それを忌々しく思いながら、利き手と反対の手の中でガムランボールを転がし、利き手の指を折る。指折りが三週目に入った所で止めて、俺は呻き声を上げながら顔を覆った。 「信じられない……」  ぽつり、零れ落ちたのは、言葉だけで無く。柔らかい音を響かせながらガムランボールがオフィスの床を転がって行った。それを横目で追いつつ、もう一度、息を大きく吐き出す。  少なく見積もっても、三年だ。三年も、もうsexをしていなかった。覚えている限り、だから、もっとかもしれない。五年程前に事業が軌道に乗り、忙しくなったのは確かだったが、それでも、どう考えても人間としておかしい。食欲、睡眠欲、性欲、が人間の三大欲求だ。  食欲は、ある。まずまずの食事も、している。まあ、大抵が仕事の会食と言うのは問題かもしれないが、それなりに食事は楽しんでいる。質も量も問題無い。  睡眠欲も、ある。生憎ショートスリーパーでは無いから、六時間は確実に取るようにしている。昨日は、七時間睡眠だった。よく眠れているし、夢見も悪くは無い。  問題は、性欲だ。性欲は、正直に言うと、旺盛な方だと思う。昨日も寝る前に自家発電で発散させたばかりだ。そう、自家発電だ! しかも、こんなに、長い間! 三年前に、恋人に仕事を理由に振られてから、利き手が恋人だなんて、人生終わっているとしか言いようが無い。まだ、仕事の上でも身体の上でも引退を考える年でも無いと言うのに! 「駄目だ。ちゃんとした相手を探そう……」  口に出して、決める。職場で決意するなど、褒められた事では無いが。ちらり、執務机を振り返る。相変わらず、書類の山は残っていたが、意識は完全に仕事には無かった。袖を引き、腕時計を見ると、昼休憩の時間だった。少なくとも、社員達に取っては、その筈だ。 執務机に丁度三歩で辿り着くと、机の一番上の引き出しを引く。そこには、朝、押し込んだモバイルフォンが入っていた。少しの逡巡の後、思い切って取り上げる。ホームボタンを押すと、メールとメッセージの通知が引っ切り無しに現れた。それを無視して、ウェブブラウザのアプリを押し、『バー』『近場』『穴場』『ゲイ』と打ち込み検索する。表示された結果に苛立った。少なくとも五年前はこれで良い所が見つかったと言うのに。もう一度、検索ワードを厳選して入れ直す。良し。良い感じの店が幾つか提示された。 「Bar Utopia! 懐かしいな……」  確か、七年程前に、入り浸っていたバーだった。五年前に、当時そこで知り合い付き合っていた恋人に浮気をされて以来、行っていなかったが。もう、時効だろう、行ってみても良いかもしれない。何しろ、あの店は、一人で行って一人で過ごしても心地好い空間だったのだから。 「違う! 相手を探せ、俺……」  どんどん思考が『お一人様』に流れ慣れて来ている。悪い傾向だ。果たして、バーに行っても、直ぐに相手を探せるだろうか、と不安が募る。違う。探せるかじゃない、探すんだ。今度こそ、長く付き合える相手を。そう固く決意して、俺は、当面の問題である仕事の始末をすべく、足元に転がっていたガムランボールを拾い机の上に置くと、座り心地の良い椅子へと腰を落ち着けたのだった。残念ながら、仕事は待ってはくれないのだ。

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