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第10話 ミスターパーフェクト

「要さん、ミーティングは来週の水曜日の午前中に決まりました。それから、申し訳ありませんが、追加の書類です」  俺は、敬虔な神道だが、イエスキリストに斬首刑を言い渡したくなった。クリスチャンの荻山には怒られるだろうから、勿論、口にはしなかったが。順調に処理済みの書類を積み重ねていたと言うのに、本当に、何故、仕事と言うのはこう積み重なるんだろう。 「それは、俺の決裁が本当に必要なの?」 「……も、申し訳ありません。畠澤と確認をしたんですが、もう一度、」 「いや、悪かった。ちょっと、疲れているんだ。ありがとう」  俺が、苛立ちから思わず口にした台詞に、荻山が焦ったように書類を差し出していた手を引っ込めようとしたので、書類を奪って未処理の山に乗せた。ああ、ジェンガも驚きの良いバランスだ。 「……要さんでも、疲れるんですね」 「俺を何だと思っているの。人間だからね、疲れるし、当たるし、失敗もするよ」  荻山の驚きの表情に、むしろ、疲れを増長されて、俺は万年筆を置くと椅子の背凭れに寄り掛かった。意外な事に、荻山はその場で重心を左から右に変える。荻山が話を聞いてくれる合図だった。スカートが微かに上がって形の良い長い脚が覗くが、俺はこれっぽちも嬉しくなかった。セクハラ疑惑を出さない為にも、女性社員はスカート禁止にしたい。そして、可能なら、男性社員に半ズボン着用を命じたい。いや、それはそれで、セクハラになるのか。 「要さんは、ミスターパーフェクトですから」 「何それ?」  俺がどうしようも無い事を考えていたら、荻山が思いもしない発言をして来た。問い返すと、荻山は苦笑と共に口を開く。 「社員の間での呼び名です」 「非常に気になるね」  椅子を戻して、執務机に向き直ると、両手を組み合わせてその上に顎を乗せた。荻山は、もう一度、軽く左右の体重を組み替えて、そして、重心を右に戻すと、指を立てた。細く長い指が指折りしてみせるのは非常に絵になったが、生憎、俺の心の疲れを取ってはくれなかった。 「仕事が出来る、社員を正当に評価する、その上で、最良の結果をもたらす」 「へえ」 「続きがあります。容姿は完璧、性格は非の打ち所が無い、身のこなしは超一流」 「過大評価だよ!」  俺が相槌を打つと、すかさず続けて来る。その内容に、思わず声が上がった。ばん、と机を叩いてしまう。  余りにも過剰な評価だった。俺は完璧とは程遠い。そう、だから、恋人からも別れを切り出されるのだ。いつも、いつも。  荻山は、小さく首を横に振って「事実です」と続けながら、次の言葉を躊躇った。非常に気になったので、視線で促すと、観念したように、小さな声で続けた。 「ただし、ゲイだ……と」  頭痛がした。軽くこめかみを押さえる。  確かに、俺はオープンだ。自分がゲイである事を、全く隠してはいない。家族にも友人にも周知の事実だ。だが、社員の一人一人にまで伝える程、間抜けでも無かった筈だ。そもそも、人の性的指向は、申告しなくても良い、非常にデリケートな話題だ。それがどうだ! この分では、新卒の社員にまで、俺のプライベートは筒抜けなんじゃないかと思えてならない。  だが、待てよ、とも思う。俺は、会社の代表が集まるパーティや会食の時に、誰かを同伴した事が無かった。今まで、誰一人として、だ。なるほど、そこから簡単に連想出来る訳か。納得は行ったが、気持ちの上では引っ掛かりが残り、長く息を吐き出す。 「なるほど。会社の何処まで俺の性的指向が知れ渡っているのか、気になる所ではあるけれど、まあ、仕方が無いね。この年まで独り身なんだから」 「そもそも、要さんご自身に、隠す気がないじゃありませんか」  荻山の指摘に、苦笑しか出て来ない。俺は、もういっそ、やけくそな気分だった。 「まあね。で、他には? この際だ、何でも聞くよ」 「では、申し上げて良いのなら……社内の誰より、ワーカホリック、と」  時が止まった。ち、ち、ち、と時計の秒針が進む音がたっぷり三つ打った所で、俺は、今度こそ本気で頭を抱えた。 「……言うに事を欠いてそれか!」 「要さんは、働き過ぎなんですよ」  すかさず荻山に畳み掛けられ、一気に疲労感が押し寄せて来て、背中を椅子の背凭れに再び預けた。座り心地にこだわった特注品は、文句も言わずに俺の体重を受け止めた。俺は一つ息を吐くと、両手を開いて執務机の上を示してみせる。相変わらず、書類の山が鎮座している執務机を、だ。 「仕事があるせいだよ!」 「仕事が早過ぎるんです」 「どんなクレーム!? 仕事は早く済ませるべきだろう?」 「社員が追い付くより早く済ませておしまいになられるから、余計に仕事が回転して更に仕事が降って来るんです」  利き手でこめかみを押さえながら、目を閉じる。荻山の言葉を頭の中で整理しようと思って、だ。しかし、考えれば考える程、深みに嵌りそうだった。 「よく、分からないな……まるで、責められているように聞こえるんだけど?」 「責めてはおりません。ですが、もう少しスローペースでも、社内の仕事は回る、と申し上げたいんです」 「こんなに、溜まっているのに!?」  俺が、もう一度、書類の山が鎮座する執務机を指し示すと、荻山は執務机に近付き、幾つか書類の束を抱え上げた。適当に取ったように見えたのに、ジェンガも驚きの未処理の書類の山は崩れる事は無かった。流石、荻山だ。 「先ず、これ。期限は来週です」 「そうだね。だから、優先して決裁を、」 「次に、これ。期限は二週間後です」 「確かに。だから、下の方にしてある」  頷きながら答えると、荻山は何故か困ったように苦笑した。そして、次を続けようとして、ひらり、と舞った葉書に目を留めた。この場に相応しく無い、非常に個人的な内容の葉書だったが、フランス語で書かれた物は読めないだろうと放って置く。 「次に、あら。フランス語ですか? 結婚しました、かしら?」 「え、フランス語も読めるの? 御母堂の出身はドイツじゃなかったっけ?」  だが、生憎と、この才女には読めたらしい。慌てて、長い指先から奪うようにして取り上げ、苦笑を滲ませ話題を逸らそうとすると、荻山はにっこり微笑んだ。珍しい、悪戯めいた笑みだな、と思った。 「学生時代に専攻しましたから。ご指摘の通り、母親はドイツ人です。でも、一番得意なのは英語ですよ。お友達、フランスで挙式なんて、ロマンティックですね」  うっとりとした表情で言われ、意外に思う。荻山にそう言う一面が有ったとは思わなかった。女性とは、何処かしらにそう言う感性を持っているものなんだろうか。同時に、溜め息を飲み込んだ。勿論、溜め息の原因は、手紙の内容を指摘された事に対する物だ。 「フランス人とのハーフだったんだ。故郷に帰ったんだよ。正確には、友達では無く、元恋人だけどね」 「それは、失礼しました」  年上の荻山には、何もかも見透かされていると感じる時があるのだが、こう言う時が、一番強く感じる。黒々とした瞳に視線を逸らされる事無く見つめられ、居心地が悪くなる。 「終わった事だけどね。……彼とも、本気だったのにな」  そのせいでか、思わず、本音が漏れていた。  七年程前に付き合っていた彼とも、当時は、本気で付き合っていたのだ。お互いの仕事を理解し合い、上手く行っていると思っていたのに。別れを切り出された時は、余りにもショックで、二、三日眠れず、集中出来ず、仕事では全く役に立たなかったものだ。  沈黙が落ちて、俺は、自分の発言を後悔した。プライベートは、基本的に、職場には持ち込まないようにしていたのに。今日の俺は、何処かおかしいのかもしれない。 「……要さんは、愛を注ぐ人なんですね」  不意に、沈黙を破って、荻山がぽつりと呟いた。耳慣れない言葉に顔を上げると、荻山は酷く穏やかに優しく微笑んでいた。滅多に見ないその表情に、驚く。 「どう言う、意味だい?」 「人には、二種類有る、と言う考え方があります。とある作家の考え方なんですが」  人差し指と中指を立てて、荻山は微かに首を傾げた。続けても良いか、と言う合図に、俺は大きく頷いてみせる。 「興味深いね」 「一方が、愛を受け止める人、で、もう一方が、愛を注ぐ人、です」  荻山の声をしっかりと頭に入れて、ふむ、と俺は小さく呟いた。疑問が生じる。 「その考え方だと、全てのカップルが上手く行くように聞こえるけど」 「逆です。偏ってしまうと、上手く行かないんです」  当然、その疑問の答えは荻山が持っていた。なるほど、と思う。世の中の上手く行く仕組みばかりで無く、上手く行かない仕組みまでちゃんと説明出来る考え方のようだ。一体、何と言う作品を書いている作家なのだろう。 「なるほど。どちらも愛を受け止めてばかりだと愛が足りなくて、どちらも愛を注いでばかりだと愛が溢れてしまうって事かな?」 「そうです。だから、それを擦り合わせる為に、余所に相手を求めてしまうのだ、と。あくまでも、考え方の一つですが、ロマンティックな考え方で好きなんです」  今日は、本当に、意外な事が判明する日だ。荻山は、てっきり現実主義者だと思っていたけど、案外、夢想家な面も持ち合わせていたらしい。女性とは、そう言う二面性を持つものなのかもしれない。俺は女性では無いから、完全な現実主義者だが。 「ふうん。意外だね。ミズ荻山は、」 「呼び捨てで」 「荻山、は、どっちなの? ああ、答えたくないなら、答えなくて、良いんだよ」  俺が訂正をして言い直すと、荻山は困ったように長い息を吐いた。つい敬称を付けてしまうのは、癖のような物なのだが、荻山はこう言う所が、本当に厳しい。だが、確かに、社外に出た時に、自社の社員に敬称を付けかねない俺には、必要な厳しさだった。 「そう言う所、ですよね。要さんの問題点は」  言われて、瞠目する。思わぬ事を言われた。確かに荻山は厳しいが、先程までの言葉を鑑みれば、俺への評価は甘かったように思えたのだが。 「問題点!?」 「一般的には問題にはならないんですが、要さんの場合、問題なんですよね。ちなみに、私は愛を注ぐタイプです」 「旦那さんは愛を受け止めるタイプなのか。お子さんも、幸せ者だね」  俺が笑って言うと、ぴしり、と指を差された。荻山にあるまじき、不作法だった。 「ほら、そこも!」 「何処!?」 「そうやって、完璧な答えを常に出してしまう所です」  荻山はそう言うと、未処理の書類の山に手にしていた書類を乗せた。完璧なのは、彼女の方だと、俺としては、思う。書類の山は全く崩れる様子を見せなかった。 「……完璧とは思わないけど。そうだとしても、それって、問題なの?」 「お相手の方は、要さんの完璧さに、息が詰まるのかも」  言われて、俺の方が、息が詰まった。 「何だか、致命的な問題に聞こえるけど?」 「要さんは、もう少し、力を抜いた方が良いんですよ、きっと。仕事も、恋も」  私のように、と締め括ると、荻山は胸に手を置いた。彼女は、完璧に仕事をこなしながら、家庭を持ち、子育てをしている。純粋に、尊敬して止まない女性だ。その彼女が、俺に力を抜け、と言ったからには、きっと、そうするのが一番良い事なのだろう。 「失礼ながら、荻山に指摘されるとは思ってもみなかった……。しかし、なるほど、俺は、少し力を抜いて良いんだね?」 「ええ」 「OK。なら、こうしよう」  そう言いながら、俺は、ジェンガも真っ青なバランスを保っていた未処理の書類を払い落とした。ぱらぱら、と書類は面白いぐらいに散らばって行く。 「まあ!」  荻山の声は、驚きに満ちていたが、困った事に、顔は喜色に彩られていた。それを複雑な気持ちで眺めながら、俺は立ち上がる。そして、ハンガーに歩み寄った。スーツのジャケットを手に取る為だ。 「荻山の考える範囲で、至急の物と猶予の有る物を分けておいてくれるかな? それが終わったら、荻山の仕事は終わり。俺も、今日はこれで上がるから」  ジャケットの袖に腕を通しながら俺がそう言うと、荻山は音を立てずに両手を叩いた。 「素敵! 是非、そうしましょう!」  テキパキと荻山の長い手が動いて行く。俺は、思わず、足元に散らばった書類に手を伸ばしてしまうが、信じられない事に、荻山は、ぱし、とその手を払った。そして、にっこりと笑った。更に酷い事に、犬を追い払うように手を動かされる。俺は大人しく、部屋の出入り口へと向かうしか無くなった。扉を開けて、出て行き掛けて、不安が胸を襲う。ちらりと振り返った。部屋の壁に掛けてある電波時計は、未だ就業時間である事を示している。こんな時間に仕事をしない事なんて、この三年程、無かったのに。 「……本当に、大丈夫かな?」 「問題ありません! 楽しい週末を!」  ひらひら、と手を振り、荻山は楽しげに書類を集める作業を再開する。 「週末だったんだ……」  俺は、言われて、今日が金曜日だと言う事を、改めて知った。そして、ようやく、そのくらい、ワーカホリックだったと自覚したのだった。

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