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第11話 Bar Utopiaでの出会い
「いらっしゃいませ」
静かな、本当に気にならないくらいの柔らかい控え目な声に招き入れられて、俺は気分が上昇するのが分かった。そうだ、Bar Utopiaはこう言う店だった。そのまま、癖でカウンター席を通り過ぎ、数年前まで定位置だったボックス席に向かう。
「……失礼」
案の定、そこには、先客が居て、俺の顔を見ると、困惑した視線を投げて来た。失礼を詫び、踵を返し掛け、思い至って、空いている方の席に尻を滑らせる。
「少し、お邪魔するよ」
「……お兄さん、初顔だね」
体格の良い片割れが、もっと体格の良い相手の腕から腕を抜きながら微笑い掛けて来た。コレは外れ、だ。尻軽はお呼びじゃない。だが、この席に座ったのには、別の目的が有った。近くを通った黒服を呼び止めて、ドリンクを三つ頼む。
「初めてでは無いけれど、ここに来るのは、久し振りなんだ。誰がフリーで、誰がフリーじゃないか、分からなくてね」
「ふうん。ボクもフリーと言えばフリーだけど……」
睫毛を揺らしながら答えられても、そそられないな、と思う。そもそも、体格の良い子は余り好みじゃない。どちらかと言うと、中肉中背が好みで、触っていて気持ちの良い子までが許容範囲だ。
「おい! 今日は、俺に付き合うと、言ってただろう?」
隣の男が俺と相手とを睨みながら、口角泡を飛ばす。ああ、五月蝿い男はもっと好みじゃない。失敗したかもしれない。
「分かってるって。さっきのは、冗談だってば。機嫌直して」
「全く。本当に、シノブはキレイ系に弱いな」
「ごめんってば。今日は、イヤってほど、サービスするよ」
目の前で繰り広げられる痴話喧嘩に、嫌気が差した所で飲み物が運ばれて来る。チップを適当に渡すと、一瞬戸惑った様子の黒服は、けれど、直ぐに優雅に手の中に仕舞い、極丁寧に俺達の前にグラスを三つ置いた。うん、黒服の教育も行き届いている。相変わらず、良い店だ。
「もしかして、奢ってくれるの?」
訝しげな声に、にこり、と努めて笑顔を深く浮かべる。俺の顔は、大きく変化を示さないと、威圧的に映る事があると分かっているからだ。
「良ければ、どうぞ」
「ラッキー」
相手は好意的に受け取ってくれたらしい。一先ず安堵する。
「ああ、美味しい。ただ酒だと余計に」
言うが早いか、グラスを半分程空け、にっこり笑うその姿に、やはり、無いな、と思う。酒は飲める方が楽しめるが、多少の遠慮は必要だし、大酒飲みは、好みじゃない。
「君も、是非、どうぞ」
「ありがたく」
堅苦しい台詞に笑いそうになる。体格に見合った話し方をする、武士のような子だ。面白い、とは思うが、残念ながら、こちらも、好みじゃない。
「で、お兄さんの好みは?」
「うーん、可愛いタイプ、かな」
問われて、迷いながら答える。過去の恋人達に共通した特徴と言う物が、それ以外に思い浮かばなかったのだ。
「それなら、アツヤとかカツキとかがおススメだけど」
直ぐに答えを得られ、期待を込めて身を乗り出す。さ、と横目でフロアを見回した。
「どの子かな?」
「二人共、今日は来てないな」
「それは、残念」
同じようにフロアを見ていた相手は、肩を竦めながらそう言った。口ではこう言ったが、そこまで落胆はしなかった。簡単に相手が見つかるなら、苦労はしない。
「あ、でも、お兄さんだったら、一番のおススメは、カウンターの子かな」
続けて言われて、通り過ぎて来たカウンター席をちらりと見遣る。カウンター席には、今、二人しか腰掛けていなかった。
「カウンター? ああ、二人居るけど」
「一人がトウマ、こっちは全然ダメ。誰が誘っても相手にしない子だから。タチっぽいし。もう一人のミツキって子が、おススメ。こっちも誘いには渋いけど、ホントに可愛いんだ」
近い方から順を追って説明され、ふむ、と思う。一応、試してみても良いかもしれない。可愛い子は、一緒に飲むだけでも、癒しにはなるだろう。
「なるほど。ありがとう」
言いながら席を立つ。当然、目指すはカウンター席、だ。
「ごちそうさま! 良い夜を」
「その、悪かったな。ごちそうさま」
二人にそんな言葉を貰って、俺は笑顔が浮かぶのが分かった。好みの子達では無かったが、気持ちの良い二人だった。二人にも、良い夜を過ごしてもらいたい。軽く手を上げて挨拶に変えると、脚を繰る。さて、今夜は、俺に取ってはどんな夜になるのか。
遠目に、言われた子を観察する。あ、駄目だ、あの子はバリバリのタチだ。俺の勘がそう言っている。流石に、バリバリのタチとは合わない。俺もタチだからだ。それも、バリバリの。
なら、もう一人の子かな。誰も相手にしない、と言う事は、浮気の心配が無い、と言う事でもある。理想的だ。タチでも、まあ、良いさ。タチ同士でも相性が良ければ問題は無い。上手く導けば、ネコに出来るかもしれないし。
恐らく染めて無いだろう髪、空調に煽られてもさらさらと揺れていて、悪くない。ちょっと猫背ぎみの肩から背中のラインは、理想的だな。後背位が楽しみなタイプだ。尻も大き過ぎず小さ過ぎず、俺の手に納まりが良さそうだ。さて、顔は。
「ここ、良いかな?」
取り合えず、声を掛けてみる。
「他、空いてますけど」
素気無い答えに、心の琴線が震えた。俺は、こう言うタイプに、本当に弱い。いわゆるツンデレって奴か。
「あっ、えっ、あっ! 空いてます空いてます!!」
「ミツキ!」
咎める声は、高くも無く低くも無く、ちょっと鼻に掛かった声だった。好みだな、とまたも良いポイントが溜まって、俺の胸が期待に高鳴る。
「空いてるんだから、良いじゃん! あ、良かったら、こっちにどうぞ!」
ミツキ、と言うらしい、もう一人に、手招きまでされたが、君じゃない、と思った。多分、彼は、良い友達になれるタイプだが、俺は、今日、友達を求めにここに来た訳じゃ無い。
不意に、彼がこちらを振り仰いだ。
俺の中でファンファーレが鳴り響いた。いや、実際に聞こえていたら相当危ない奴だろうが、正に、そんな心地だった。髪と同じ色の睫毛から覗く淡い色合いの瞳は、一晩中でも舐めていられそうな程に甘い色合いだった。薄い唇は、まるで吸って欲しいとでも言うようで。ちょっと上向きの鼻は、顔立ちに愛くるしさを添えている。本当に、好みの顔だった。
不味いな、これは、持ち帰れなかったら、相当引き摺るぞ。止めるなら今しかない。俺は自分に言い聞かせる。
「君は、良いかな?」
努めて落ち着いた声を心掛けながら、問い掛ける。だが、相手から返事は得られなかった。ただ、俺を見詰める目は、ひたすらに俺だけを映していて。どくり、と胸が弾んだ。この子と、深く知り合いたい、と改めて思った。
「トウマ! もちろん、良いよね? あ、座って座って!!」
ミツキと言う子に促されて、つい、カウンター席に、彼の隣に、腰を落ち着けてしまう。俺は、心を決めた。今日は、絶対に、この子を持ち帰ろう、と。何としてでも。
「トウマ君、って言うんだ。俺は、ケイ。トウマ君、って呼んでも良いかな?」
今度は、意識して柔らかい声を出した。交渉でも何でも、相手に与える印象が大事だ。警戒心を解いて、相手の懐に入り込む。そうやって、俺は今まで仕事で上手く交渉をして来た。そのノウハウを、活かす時だと思った。
だが、相手は、ただこちらを見るだけだった。警戒心を解けていないのか。
その時、彼が身体を震わせて、もう一人を振り返った。ぼそぼそ、と何かを二人で喋った後、こちらを向いた彼は、ちらと俺を見上げた後、こくん、といとけなく頷いた。その、仕草が、堪らなかった。何とか言葉を絞り出す。
「良かった。俺の事は、ケイと呼んで」
「は、はい……」
そう言うと、彼は俯いてしまう。染めていないだろう髪が、併せて、さらり、と揺れる。どうかしている、と思われるかもしれないが、その、髪に手を入れて、くしゃくしゃに乱してしまいたい、と俺は思っていた。いけない、こんな場所で考える事じゃない。
「何を、飲んでいるの?」
何か話題を、と思い、問い掛ける。喉が酷く渇いていた。彼は、グラスの中身を飲み干すと、口を開いた。
「ウィスキーの水割り」
鼻に掛かった声は、やっぱり、好みだな、と思う。丁度良いタイミングで寄って来たバーテンダーに、声を掛ける。
「ふうん。ああ、彼と同じ物を、ダブルで」
「かしこまりました」
静かに注文を受けたバーテンダーは、やはり静かに俺の注文の酒を入れ始める。バーテンダーにも教育が行き届いていて、本当に良い店だな、と頭の片隅で思った。だが、それ以上に、隣の彼の事が気になった。彼の意識が俺に有るのは確かなのに、視線が全く合わない。その事に、俺は焦れ始めていた。何が、彼をこんな風に頑なにしているのか。
コトン、と静かにグラスが目の前に置かれた。意識を戻され、俺はバーテンダーに目線だけで礼を言う。今日の俺は、何処かおかしいかもしれない。冷静さを取り戻さねば、と思いつつ、グラスに口を付ける。アルコールは柔らかく喉を通って行った。
「あ、僕、知り合いがあっちに居るんで、失礼しますね~」
ミツキと呼ばれたもう一人が、そんな事を言いながら立ち上がり、あっという間にフロアに紛れてしまう。何となく目で追って、隣を見ると、困ったような顔をした彼が居て。やはり、未だ警戒心を解けていない、と感じた。
「友達、気が利くね。実は、二人になりたいって思っていたんだ」
「そ、そう、ですか……」
だが、俺の口からは、より警戒心を増すような台詞が飛び出していた。おまけに、勝手に身体が寄ってしまう。とん、と腕が触れた。彼の、何もまとわない、彼自身の香りが、して。俺は、くらり、と頭が揺れるような心地がした。すると、隣で、ぐい、と勢いよくグラスが空く。チャンスだ、と思った。
「行ける口かな? もう一杯、飲む? 奢るよ」
「頂きます……」
警戒心を未だ感じさせる硬い声で答えられたが、構わなかった。どれだけ強いのか分からないが、酔わせてしまえば、警戒心は否が応でも緩む。その時を狙おう、と思った。
そう思っていた筈なのに。グラスを手に取ろうとした手に、思わず触れていた。どうしようもなく、誘われていた。くるり、と彼の顔がこちらを向く。その瞳を覗き込んだ瞬間、ああ、と思った。恋は、する物じゃない、落ちる物だ、と言う言葉が何処かから聞こえる。俺は、完全に、彼に落ちていた。まるで、魔法に掛ったように。
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