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第13話 手の平から零れ落ちた恋

 濡れた髪をタオルで拭き上げながら、じ、と学君の顔を見つめる。愛おしいな、と思った。溢れ出て来る想いに押し潰されそうだった。初めての感覚だ。確かに、過去の恋人達とも真剣に付き合って来た。結婚を考えた相手すら居た。だが、ここまで愛を注ぎたい、自分の愛で満たしたい、と思ったのは、初めてだった。  そっと額に触れてみる。酒の影響か、それとも元々体温が高いのか、学君の額は温かかった。堪らないな、と思う。我慢出来ずに唇を寄せてしまう。三回程唇を押し付けた所で、駄目だな、と思った。これ以上触れていたら、眠っている学君に無体を働いてしまいそうだった。さっき、浴室で三回も抜いて来たのに。全く俺の性欲はどうなっているんだろう。心と身体はつながっているとはよく言うが、ここまで連動しなくても良いだろうに、と自分自身の事だと言うのに呆れてしまう。  仕方無しに、溜め息を落として、一旦寝室を出る。どうしようか、と思ったが、タオルを脱衣籠に入れると、腹を決めた。寝室に舞い戻り、ベッドの中に身体を滑り込ませる。そして、彼に背を向ける事にした。すうすう、と言う寝息が聞こえる。気配を感じて眠るだけでも、良い物だな、と思った。自然と目蓋が落ちて来る。ああ、明日になったら、彼をここに閉じ込める方法を考えなければ。そう思いつつ、俺は眠りの中に身を投じたのだった。  心地好い睡眠だった。その筈だった。愛おしい存在が、手の届く範囲に居るのだから。  ぱたん、と言う控え目な音が聞こえて、俺は意識を現実へと引き戻した。くるり、と身体を反転させる。愛おしい存在を確認しようと思ったからだ。 「学、君……?」  だが、そこに居る筈の存在は無かった。慌てて掛け布団を剥ぎ起き上がると、周りを見回す。学君本人が居ないだけで無く、ベッドの向こう側に有った筈の、昨日、彼が脱ぎ散らかした衣服が、全て消えていた。冷や汗が背中を伝う。  ベッドから急いで抜け出ると、俺はこれだけはいつも適当にクローゼット入り口の取っ手に掛けてあるガウンを羽織り、ベッドルームを飛び出した。 「学君!?」  リビングルームにも、彼の姿は無かった。万が一を考えて、トイレも覗いてから、慌てて玄関へと向かう。スニーカーが無かった。冷や汗は一筋どころの騒ぎじゃ無くなっていた。玄関の飾り棚の上の、貝殻の皿に乗せてある鍵を引っ掴み、ばん、と勢いよく玄関を開けると、丁度角を曲がった先にあるエレベーターに乗り込む後ろ姿が見えた。裸足だったが、構う物か、と駆け出した。 「学君! 待って!」  近所付き合いを考える間も無かった。大声で呼び掛ける。だが、無情にも俺の姿が見えただろうに、学君はエレベーターの扉を閉めてしまった。だん、とエレベーターの外扉を叩く。自分の家が、ペントハウスである事を今日程恨んだ事は無かった。ここまでは、エレベーターは一台しか乗り入れて無いのだ。いや、こんな事をしている場合じゃ無い。  俺は急いで家に引き返すと、適当に選んだ服を着て、また家を飛び出した。世間体と言う物が有って、流石にガウンで家を出る訳には行かなかった。エレベーターが来るのが余りにも遅く感じる。間に合え、間に合え、と心の中で叫び続ける。  しかし、地上に降り立った俺の前には、悲しい現実が待っていた。学君の姿は、右を見ても左を見ても見当たらなかったからだ。だが、じっともしてはいられなかった。勘で左に向かう。最寄り駅の方向だからだ。駅からは、歩いて七分の所にマンションは有った。学君が行くとしたら、きっとそこだろうと思った。久し振りに全力疾走をして駅まで行く。息が上がったが、構わなかった。それ以上に大事な事が有った。ターミナル駅になっているそこは、しかし、人が多過ぎて、学君の姿は探し当てる事が出来なかった。左右を見回し、人の間を通り抜け、幾つかの改札口の傍の切符売り場を覗く。だが、現実は余りにも無情だった。俺は、呆然と立ち尽くすしか無かった。俺の周りを、迷惑そうに人々が通り過ぎて行くのが、辛かった。  家に帰って、先ず最初に思い付いたのは、二十四時間常駐している管理人に話を聞く事だった。だが、生憎、何も情報は得られなかった。彼の行った方角すら。監視カメラの映像を見せて貰えないか問い質したが、セキュリティの問題から無理だ、と突っぱねられた。当然の事だったが。  次に思い付いたのは、懇意にしている興信所に連絡を取る事だった。俺が、公私共に使っている興信所は三つ有る。モバイルフォンを手に取って電話帳を開いて、けれど、俺はそのままモバイルフォンをガラスのローテーブルに叩き付けた。駄目だ、と思う。興信所で調べるのは最終手段だった。誰が、そんな所で自分の事を調べ上げた男を信用するだろう。少なくとも、俺なら絶対に信用出来ない。彼の信用を失いたくなど無かった。 「学君……」  俺の手から呆気無く零れ落ちた恋に、俺は愕然とするしか無かった。  けれども、どうにもじっとしていられない。俺は、何度か立ち上がり、座りを繰り返した。そして、思い立つと、服を着替え、また駅に向かった。行き先は決まっていた。Bar Utopiaだ。生憎、店は閉まっていたが、開店まで待つ気でいた。十年前に辞めた筈の煙草が、妙に恋しかった。 「あれ? ケイ、さんだっけ?」  不意に、声を掛けられ顔を上げると、昨夜見掛けた印象的な顔がそこには有った。 「君は……ミツキ君、だったかな?」 「ミツキ、で良いよ。トウマは? どうしたの?」  問われ、苦い想いが胸を渦巻いた。その想いが、顔に出難い筈の俺の顔に珍しく出ていたらしい。ふうん、と小さく口にすると、ミツキは首を傾げる。 「差し詰め、逃げられたって所か」  ずばり言われて、益々苦い想いが俺の眉を寄せた。ポーカーフェイスが得意な俺だったが、今は、どうしても取り繕えなかった。さくさく、と落ち葉の音をさせ近寄って来ると、ミツキは俺を見上げて来る。 「あのさあ、ここのオープンまで、後何時間有ると思っているの?」  問われたので袖を引き、ちら、と腕時計を見る。朝の十時だった。恐らく、大分待つのだろう。 「さあ。開店時間に来た事が無かったから、分からないが、待つよ」  盛大に溜め息を吐くと、ミツキは、こてん、と可愛らしく首を傾げた。 「それより、僕に着いて来る方が有意義だと思わない?」 「……それは、有意義かもしれない。だが、良いのかい?」  思わぬ言葉に一瞬反応が遅れたが、有り難い申し出に、飛び付く以外に道は無い。 「しょうがないね。今日、この時間に、偶々この前を通り掛かった運命だと思っておくよ」 「ありがとう」  そう言う訳で、ミツキと連れ立って、この近くのコーヒーショップに行く事になったのだった。  コーヒーは意外にもブラックと言う彼の分も一緒に頼んで、席に着く。 「ご馳走様」 「いや、安い物で済まない」 「ちょっと、それ、大きな声で言っちゃ駄目じゃない?」  茶目っ気たっぷりの笑顔で言う様は、本当に愛くるしいが、残念ながら、俺が求めているのは彼では無かった。勿論、彼も俺を求めてなどいないだろうが。何しろ、彼は恐らくバリバリのタチだ。そして、俺もバリバリのタチだった。  コーヒーを口に含む。チェーン店の味としてはまあまあだな、と思った。ふう、とカップに息を吹き掛けながら、ちら、とこちらを見るミツキの意図を察して、頷いてみせる。彼は、結局カップに口を付けずに置くと、テーブルに肘を付いて口を開いた。猫舌なのだろうか、と言うどうでも良い疑問が浮かんだ。 「先ず、僕はトウマの個人的な連絡先は知らない。ごめんね。それから、トウマは、毎週末ごとにバーに来る訳じゃ無いし、そもそも、逃げ出したのなら、ほとぼりが冷めるまで、絶対あそこには来ないよ、断言出来る」  確信に満ちた声に、そうだろうな、と思いながらも、俺は反論したくなった。手の平から零れ落ちてしまった恋を、諦めたくなかったからだ。 「どうして分かるんだい?」 「トウマは、猫みたいな所が有るからね。本当に用心深いんだ。不用意に近付いたら、逃げるだけだよ」 「猫、か」  不思議な事に、俺が昨日学君に感じていた印象を、目の前の男も抱いていたらしい。 「だから、バーに行ってもしょうがないと思うけど……」 「他に、探す当てが無いんだ。何か、情報が欲しい」 「興信所……に頼ったりしたら、あの子は頑なになりそうだもんね」  苦笑されて、俺も苦笑しか出ない。成る程、考える事は一緒らしい。  不意に、ミツキは鞄の中から名刺入れとペンを出し、一枚名刺を取り出し裏返すと、さらさら、と思ったより男らしい達筆な字で何かを書いた。 「これ、僕の名刺、と連絡先。僕自身は、週末はバーに居るから、トウマが現れるようなら、連絡してあげるよ」 「ああ、なら、俺の名刺も渡しておこう。ちょっと待ってくれ」  俺も急いで胸ポケットから名刺入れを出して、しかし、そこで止まってしまう。ペンを持っていなかったのだ。当然ながら、愛用している万年筆も無かった。 「これ、使って」 「何から何まで、済まない」  一言謝ってペンを借りると、名刺の裏に私用のモバイルフォンの番号とメールアドレスを書き付けた。覗き込んで来た相手が、意外そうな声を出す。 「随分、綺麗な字を書くね」 「親に矯正されたんだ。字だけはね」  矯正されなかったのは、利き手と性的指向だ。勿論、性的指向は矯正出来る物でも無いが。 「ふうん。桐生要、ね。要って呼んでも?」 「構わない。こちらも光希と呼び捨てさせて貰っているんだから」  互いに名刺を交換し合い、名前を確認し合う。登録が面倒だから、とSNSのアドレスもモバイルフォンを片手にQRコードを使い交換し合った。詳しく聞くと、光希は、実は同い年と言う事が分かった。後は、バリバリのタチだ、と言う事も。それは、本当に、どうでも良い情報だったが。  名刺をもう一度見返して、思わず声が漏れた。 「M&Fって、アパレルのかい? 代表って事は、もしかして君の会社かな?」 「一応、僕の会社。知っているの? オーダーメイドスーツしか着なそうな顔しているのに」  随分、偏った見られ方だな、と思う。確かに、最近では、スーツはオーダーメイドのみしか袖を通さないが、それは仕事上で信用を得る為の手段に過ぎなかった。 「失礼だな。Uカンパニーの服やGENERATIONの服も着るよ」 「マジで!?」  カジュアル衣料を大量販売している大型店の名を出すと驚かれた。今日、下に着ている服だって、そこの物だと言うのに。 「まあ、流石に、M&Fは、俺が着る訳では無く、秘書の子供が贔屓にしているんだけどね」  そう言うと、光希は明らかに残念そうな顔をした。 「何だ! 子供、って事はやっぱりティーンか!! 僕の狙いの購買層はミドルエイジなんだけどなあ」  言いながらコーヒーを口にする。つん、と尖らせた唇は不満げだったが、俺は首を捻る。彼のメーカーのデザインを思い出していたからだ。 「あのデザインだったら、購買層をティーンに絞っても悪くはないんじゃないかな? 今、ティーン、特にローティーンの財布はシックスポケットなんて言われるくらいだから、ミドルエイジよりよっぽど購買力は高い可能性が有る」  指を一本立て、その上に反対の指を三本立てて見せると、光希は思わしげな顔をした。よくよく表情の変わる男だ。こう言う代表で、大丈夫なのだろうか、と余計なお世話ながら思ってしまう。腹の探り合いには、ポーカーフェイスが外せない、と思っている俺からすると、無防備過ぎる気がしたのだ。 「……確かに、そこは盲点だったかも。今って、独身のミドルエイジが多いから、ずっとそこを狙っていたんだけど、シックスポケットにまでは考えが行ってなかったよ。うん、それも有りかも。ありがとう」  にっこり、微笑まれて、俺も微かに笑みを返す。本当はそんな気分じゃ無かったが、仕方が無い。つられてしまったのだ。 「いや。情報を提供して貰う対価としては安いくらいだよ」  俺がそう言うと、俺の名刺を弄びながら、光希は小首を傾げた。本当に、こう言う姿が上手く映える男だな、と思う。それから、これが俺のポーカーフェイスの代わりか、と思い至った。この男の愛くるしい反応は、どうしても、油断を生む。 「で、桐生って、あの、桐生だったりする?」 「君の言っているのがIT関連の物なら、そうだね」  頷いて返すと、大きな目を更に大きくして、光希は軽くテーブルの天板を叩いた。 「誰もが知ってるSNSじゃないか! さっき、僕達が使ったヤツもそうだったし。でも、そこのCEOじゃあ、週末も忙しいんじゃないの?」 「休日返上で働いていたら、あの規模になっていたって所かな。時代の波に乗れたんだ。だが、今週末は、秘書に完全休日を言い渡されていてね」  荻山の笑顔を思い出しながら言うと、自然と苦笑が漏れた。俺は、何故、こんな事まで光希に話す事になってしまったのだろう、とも思う。だが、彼の協力は何よりも必要な物だった。学君への手掛かりは、彼が最も多く持っている筈だったからだ。 「ふうん。自分と仕事、どっちが大事なのー、って言われて別れを切り出されちゃうタイプ?」  問われて、昔を思い出す。 「今までで一番心に来た別れの台詞は、『貴方には僕は必要じゃないでしょう』だな」 「うわぁ、きついねえ。それは響く」  胸を抑えて顔まで顰められて、当時を思い出し、俺も一瞬、感傷に耽った。 「必要だったんだけどね。大事に、していたつもりもあったけど……十分では無かったんだろう」  彼とも、真剣に付き合っていた。本当は、結婚まで考えていた相手だったのだ。だが、今思うと、色々と不十分だったのかもしれない。学君に今感じている想いに比べれば、もっと、ずっと弱い想いしか抱いていなかった気がした。 「……もしかして、要って、完璧主義タイプ?」  光希は少し中空を見上げ思案げな顔をすると、探るように俺の方に顔を近付けて来た。長いカールした睫毛が見て取れる距離に、ぎょっとする。しかし、言われた事には、しっかりと考えを巡らせ、唸ってしまった。 「……自覚は無かったが、それはあるかもしれないな」  はあ、と心底呆れたように溜め息を吐かれて、若干むっとしてしまう。だが、光希は今までと違い、柔らかく微笑んで見せると、同じくらい柔らかい声を出した。 「あのね、全部、完璧に完璧に、って考えない方が良いよ。周りが何とかフォローしてくれるもんだよ。仕事も恋も、ね」  何だか、聞いた事が有る言葉だな、と思った。それも、極最近に。そう、秘書の荻山に言われた言葉とよく似ていた。思わず苦笑が滲んでしまう。 「意外だな。秘書と同じ事を言うんだね」 「へえ。その秘書さんとは友達になれそうだなあ」 「確かに」  俺は、大きく頷いて、請け負った。荻山は、可愛い物に目が無いのだ。きっと、光希の事を一発で気に入る事だろう。  その後、一時間程光希とコーヒーショップで過ごし、結局、何の手掛かりも得られないまま、俺は、家に帰る事になったのだった。

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