学君に対する、重要な手掛かりを得られないまま、悶々とした状態で平日を迎えた。俺の機嫌は最下降線を辿っていたが、生憎、仕事は待ってはくれない。出社して、しっかり仕事に取り組んでいた。そのつもりだった。 「要さん。そちらの書類の山の優先度が低いんですが……」 　三度目に、申し訳無さそうに荻山に指摘されて、とうとう俺は万年筆を投げ出していた。 「休憩にしても、良いだろうか？」 　問い掛けると、荻山はさっと立ち上がり、にっこりと微笑んだ。 「今、コーヒーを入れて参りますね！」 　妙に弾んだ声だった。俺の調子は最悪だと言うのに、どう言う事だろう。くるり、と椅子を回転させ、背凭れに寄り掛かると目を閉じる。頭痛が、僅かに感じられた。寝不足のせいだ。 　暫くして、良い薫りをさせて、コーヒーを手に荻山が戻って来る。 「さ、どうぞ召し上がってください」 　コーヒーカップの傍らには、彼女の私物と思われるチョコレートが有った。敵わないな、と思う。 「ありがとう。遠慮無く頂くよ」 「良いんです。私、今日は、本当に要さんが人間だって分かって、感動しているんですから！」 　思わぬ事を言われて、コーヒーカップに近付けていた顔を戻し、立っている荻山を見上げる。基本的に笑顔を絶やさない女性ではあるが、今は、また違った笑顔を浮かべていた。 「……まるで、その言い方だと、今までは俺がアンドロイドだとでも思っていたような口振りだけど？」 「その通りです！」 「人間だよ！　見るからに人間だろう！？」 　元気に即答されて、思わず俺も勢いよく返してしまった。両手を広げて見せる。人間アピールを誰かにする事になるなんて、思いもしない事だった。荻山は相変わらず笑顔を崩さずにさらっと言葉を続けた。 「人間らしさの欠片も無い、ミスターパーフェクトでした」 「何気に酷い事を言うね」 「褒めてますよ？」 「何処が」 　俺が苦笑を滲ませてじとりと睨むと、肩を竦めて怖がって見せてから、荻山はにっこりと笑った。彼女のコミカルな動きに、何と無く気分が変わるのを感じる。漸くそこで、俺は薫り高いコーヒーに口を付けた。苦みの後に僅かに酸味を感じる。俺の好きなブレンドだった。ああ、と思わず声が漏れた。 「先週末は、良い週末じゃ、無かったんですね？」 　不意に荻山が問うて来る。ちらりと彼女の足元を見ると、重心が右側に乗っていた。ちなみに、今日の彼女はパンツスーツスタイルだ。セクハラ疑惑が起きなくて有り難い。俺は、言うべきか言わざるべきか一瞬悩んで、光希の言葉を思い出した。そして、重い口を開く。助けを求めるように。 「……可愛い猫を捕まえたと思ったら、逃げられたんだ」 　ぱん、と両手を叩き、今度は少し顔を顰めると、荻山は小首を傾げた。 「まあ、猫ちゃん！　じゃあ、接し方を間違えられたんですね？」 「きっと、そうなんだろうね」 　何処で間違えてしまったのかさっぱり分からなかったが、逃げられた、と言う事はそう言う事なんだろう。昨日、俺は自分の行動を散々振り返ったが、そのどれもが不味かったように思えて、猛省した物だった。だが、断言出来るが、もう一度あの日を繰り返しても、絶対に俺は同じ行動をしただろう。 「猫ちゃんは、対応が意外に難しいですから」 　荻山の台詞に物思いから立ち返り、顔を上げる。 「飼った事が有るの？」 「昔、一匹だけ」 　問い掛けると、右手の指を一本立て、荻山は懐かしそうに笑った。ふうん、と呟いて、俺はコーヒーカップを執務机に置くと口を開く。 「俺は、切れ目無しに実家で飼っていたのになあ。対応は得意だと思い込んでいた」 　背凭れに寄り掛かりながら、チョコレートを手に取る。高級そうなそれを、本当に食べて良いのか、と荻山を見上げると柔らかく微笑まれた。 「ミスターパーフェクトを捨てないといけませんね」 「そうなのかも、しれない……」 　言われて、既視感を覚える。光希も似たような事をやはり言っていた。でも、俺は自分が完璧なつもりなんて、全然無かったのに。むしろ、欠陥だらけだと思っていた。だからこそ、逃げられたのでは無いのだろうか。昨日も散々考えた結論に至って、苛々としてしまう。思い切ってチョコレートの包装を剥ぎ取り、ふくよかな薫りを楽しみながら、口の中に放り込む。甘さと苦さが同時に口の中で蕩けた。ああ、癒されるな、と思った。 「猫ちゃんは、愛を、注ぎたい相手でした？」 　優しい声だった。年上だと、そう感じさせる、そんな声だった。俺は荻山を見上げて、それから、大きく頷いた。 「うん。初めて思ったよ。全てを懸けて手に入れたいって」 「要さんが、一生懸命になれば、きっと応えてくれますよ」 　安請け合いのような言葉だったが、俺には、今、一番必要で欲しい有り難い言葉だった。思わず口元には笑みが浮かんでいた。 「そうなると、良いと思っている」 「きっと、大丈夫です」 「……ありがとう。チョコレートも、美味しかった」 「どういたしまして！」 　漸く、気持ちが切り替わったような気がした。その後は、ミスもする事無く、いつも通りに、いや、いつもの八割程度だったが、少なくとも円滑に仕事を進める事が出来た。荻山は、やはり唯一無二の優秀な秘書だ。 　週末、俺は、Bar Utopiaに居た。やはり学君は来ていなかったが、光希と直接情報交換をしたかったからだ。学君のよく着て来ていた服や靴のメーカーや、財布のブランドの情報は得る事が出来たが、そこから彼に辿り着くのは、砂漠の中でオアシスを探すような物だ、と愕然としていた。だが、何も情報が無いよりはマシだ。 　酒を奢る、と言ったら、単価の高い強いカクテルを頼まれて微妙な気分になる。俺自身は、ウイスキーのロックをダブルで頼んでいた。 「僕はウサギに目が無いんだ。たまにこのバーに来るウサギみたいな子が居るんだけど、彼はいつも男を連れていてさ」 　本当に要らない情報だったが、こうして会話をする事で、光希の事を深く知る事になっていた。どうやら、片想いをしている相手がBar Utopiaに居るらしい。意外だった。 「本当に淋しがり屋で、一人では居られない子なんだろうなあ、って思うんだけど。僕、略奪者にはなりたくなくて。結構、そう言うの気にしちゃうから」 「君は、ぐいぐい行きそうなタイプに見えるけど」 　俺が遠慮も無く言うと、言われ慣れているのか、光希は快活に笑って見せた。 「よく言われる。でも、意外と繊細なんだよ。だから、一人にならないかな、って思いながら通っているの。ま、つまみ食いもするけどね」 　ぺろ、と出した舌は真っ赤で、彼の西洋人形のような顔立ちに合う色合いだな、と思う。カクテルはいつの間にか二杯目を干していた。光希は遠慮も無く、三杯目も単価の高いカクテルを注文していた。 「それで、学君……失礼、トウマ君とはいつ知り合いに？」 「三年くらいになるかな。トウマは、見ていて面白い子だなって思ってさ。本当に猫みたいだろう？　警戒心ばっかり強くていっつも毛を逆立てていて。でも、そっと傍に居るだけだと、意外と平気なんだ」 　歌うように楽しそうに言われて、俺は彼のあの夜の様子を思い返していた。確かに、酒が入る前は警戒心の塊みたいな子だった。その後は、気紛れな猫のような動きを見せていたな、と思う。俺は大きく頷いていた。 「確かに、猫みたいだな」 「ふふ、猫は好き？」 　光希は意味有りげに流し目をして来る。だが、そこに色は無かった。まあ、有っても困るのだが。 「実家では三匹飼っているよ」 「そんな気がしてた」 　俺が素直に頷いて見せると、光希は得意げに言った。何故、知られたのだろう。本当に、光希の千里眼は侮れない。 　ちなみに、結局、カクテルを五杯奢る事になった。少しは遠慮をして欲しかった。 　翌週の仕事は、俺としては八割程度の力でこなしていたのだが、回りは思った以上に順調だった。フォローを頼んでみたら、更に円滑に遣れた。荻山だけで無く畠澤にもフォローも依頼したら、畠澤にはいたく感激された。そして、こんな言葉を頂いた。 「要さんも、人間だったんですね！」 　思わず荻山を見てしまったのは言うまでも無い。口笛を吹くような仕草をして惚ける荻山を、咎める事は出来なかった。 　昼は昼食会と言う会合をして、午後は会議を繰り返し、夜には夕食会と言う接待や商談を持つ。繰り返されるそれらを何とかこなしながら、俺は、周りのフォローの有り難みを感じていた。俺には、思った以上に優秀な部下が多かったようだ。物思いのせいで忘れていた書類が有ったりちょっとしたミスをしでかしても、さっとその場でフォローされる。皆が、良い動きをしてくれている事に、今更気付くなんて、本当に俺は周りが見えていなかったんだな、と感じた。ワンマンだった俺に、呆れずについて来てくれた皆に、深い感謝の気持ちを抱いた。そして、それに気付かされる切っ掛けをくれた学君を、より恋しく思うのだった。 　次の週末も、Bar Utopiaに来ていた。光希から、新たな情報を引き出したくてだ。今日は、一杯しか奢らない事を告げたら、光希は笑って頷き、俺と同じウイスキーのロックをダブルで頼んでいた。やはり、飲める口らしい。 　話が仕事の事になった時だった。不意に、光希が顔を顰めて俯いた。珍しい反応だった。後ろを何人かの集団が通り過ぎて行くのを感じながら、光希の顔を覗き込む。 「嫌な奴に遭遇しちゃったな……」 　光希の方を見るように見せ掛けて賑やかなボックス席を見ると、知った顔が見えた。俺も少し顔が歪む。 「あれは……神尾の？　この店には、ちょっと不釣り合いだが」 「うん、神尾グループの次期社長候補。知っているの？」 　問われて思わず苦笑が漏れた。 「神尾啓斗を知らなかったら、ゲイとしてはモグリかファッションだろう？」 　神尾啓斗は、ゲイ界隈では有名な男だった。何年か前は、帝王、なんて呼ばれていたりもした。それくらい、とにかく来るもの拒まず去る者追わず、の入れ食い状態だったのだ。だが、彼自身は、それでもクローズのつもりでいるらしい。 「確かに。僕は、アイツが本当に嫌いなんだ。本当に誰でも食い散らかすから」 　俺が思い浮かべていたような事を口にされて、苦笑いしか出来ない。しかし、と思い返す。 「でも、神尾は、確か、五年程前に恋人が出来て大人しくなった気がしたが……」 「三年前まではね。アイツ、束縛っきーだから、どうせその飼い犬に噛まれたんだと思うよ」 　光希の物言いは今までに無い程厳しい物だった。本当に神尾が嫌いなようだ。何か因縁でもあるのでは無いかと思ったが、俺達は、そこまで突っ込む間柄でも無い。それに、光希の言ったキーワードが気になった。 「飼い犬……」 　繰り返すと、吐き捨てるように光希は言う。 「アイツの好み、犬みたいに従順なタイプだからね。僕は、全く食指が動かないから被らなくて良いんだけどね」 　成る程、と思う。こう言いながら、好みの誰かを横取りでもされたのだろう。でなければ、意味も無くここまで嫌う男でも無い。光希は見た目によらず本当にさっぱりした性格なのだ。 「前の飼い犬に逃げられて、新しい飼い犬を探しているんでしょ」 　続いた言葉に引っ掛かりを覚える。神尾の手腕は、直接見た事は無かったが、噂でよく知っていた。 「そう、簡単なタイプじゃ無さそうだが……」 「どう言う意味？」 　俺が呟くと、聞き咎めた光希は突っ込んで来る。噂を思い出しながら口を開いた。 「どちらかと言うと、彼の手腕は徹底的に外堀を埋めて追い込む感じなんだ」 「……じゃあ、今は外堀を埋めているって事？」 「そんな気がするね」 　頷いて見せると、光希の細い眉根がぎゅっと更に寄った。そして、徐に立ち上がる。 「あー、ヤダヤダ。ああ言う頭のおかしそうな奴とは関わりたく無いや。今日は、僕は上がるけど、どうする？」 「俺も出よう。余り顔を合わせたくないのは、一緒だ」 　急いで会計を済ませ、俺達は外へと躍り出た。はあ、と息が思わず漏れる。遣る瀬無さからだった。学君に、会いたかった。不意に、光希がぱちんと器用に指を鳴らした。 「あ、そうだ！　トウマの件で、一つだけ」 「何だい！？　何でも良い、情報が有るなら欲しい！」 　思わず取り縋るように近付くと、とん、と胸を押される。成る程、引くのでは無く受け流す方法も有るのか、と感心してしまう。鞄からモバイルフォンを取り出し、光希は掲げた。俺も急いでモバイルフォンを取り出す。 「ノーブランドの服ばっかりだからノーマークだったんだけど、一度だけ、フォーマルを着て来た事が有ってさ」 「フォーマル？」 　繰り返すと光希は大きく頷いた。 「多分、セミオーダーだと思うんだけど、あのタイプをこの辺で扱っている店の有る駅、リストアップしてたんだった。ちょっと多いんだけど、この周辺から回ると良いかなと思って。今、送るよ」 　一気に言うと、長文メールと添付ファイルが送られて来た。添付ファイルをざっと見て、その店と駅の多さに目眩がしたが、仕方が無いとは思う。今はセミオーダーを取り扱っている紳士服店は増えて来ているのだ。顔を上げて目礼する。 「助かる。ありがとう」 「こっちこそ、絞り込めなくてごめんね。トウマの探索、頑張って。要の恋が上手く行く事、祈っている」 　とん、と胸を肘で叩かれて、意外に強いそれにむせそうになったが、堪えて笑顔を作る。 「俺も、君の恋が上手く行く事を祈っておこう」 「止めてよ。でも、そうだね。少し頑張って動いてみようかな……」 　思案げな光希は、珍しく苦く笑うとさっと手を挙げて自分の利用する駅の方へと進み始めた。後ろ姿に声を掛ける。 「健闘を祈るよ。じゃあ、また来週」 「じゃあね」 　言いながら俺も自分の使う駅の方に歩き出す。幸運な事に、来週が来ない事になるとは、この時の俺は思っても居なかった。