16 / 18
第16話 魔法に囚われて
「コーヒーをもう一杯、どうかな?」
「あ、じゃあ、貰おっかな」
学君の誤解を解くのに、随分、時間が掛かってしまったが、今日は畠澤の働きのお陰で、一日予定が空いている。彼と会話を持つのには、十分な時間が有った。嬉しくて、何処か面映ゆくて、落ち着かなくて、学君に笑い掛けた後、俺は二つのカップを手に立ち上がると、キッチンへと向かった。コーヒーを淹れ直す為だ。コーヒーにだけは拘りを持つ俺は、豆から挽いて一杯ずつ淹れてくれるドリップ方式のコーヒーメーカーを契約している。豆を必要量だけ焙煎してから、コーヒーメーカーにセットすると、カップをセッティングしボタンを押した。これで、馥郁としたコーヒーが飲めるのだから、便利な上安い物だと思う。
「ミルクポーションが必要かな? それとも、牛乳が必要? 砂糖はどうしようか?」
彼の好みが分からなくて、先程は、何も聞かず、勝手にミルクポーションだけ入れ渡してしまったが、今は余裕が有るので問い掛ける。
「あ、じゃあ、牛乳たっぷり目でお願いします」
軽く頭を下げながら言われて、学君の好みの味を知って嬉しくなる。彼の好みは、カフェオレか。なら、今度淹れる時は豆も変えないとな、と俺は頭の片隅で思いながら口を開いた。
「コーヒー自体、苦手って事は無いよね?」
「ブラックでも飲めるけど、カフェオレの方が好きだから……あの、ごめん、コーヒーにこだわる派だったら」
「自分の飲む分は拘るけど、相手に押し付ける程狭量じゃ無いつもりだよ。美味しく飲んでもらえれば嬉しいかな」
学君の気遣いに嬉しくなって笑いながら答えると、学君は明らかにほっとして見せた。彼の分にはたっぷり牛乳を注いで、また、リビングルームへと戻る。勿論、彼の隣へ、だ。学君の顔を見ると、つい笑顔が零れてしまった。ぽやん、とした顔で、こちらを見上げる学君は、もしかしたらまた、自惚れでは無く俺に見惚れているのかもしれない。本当に、俺の顔が好みらしいから。
「俺の顔が、本当に好きなんだね」
つい、言葉にも出してしまった。途端に、顔を真っ赤にして、学君は俯いてしまう。ああ、しまったな、と思った。
「ごめん、責めているとか揶揄っているとか、そう言うんじゃないんだ。嬉しくてね」
慌てて言い募ると、ちらりと俺を見上げて、学君は軽く首を傾げた。
「どう言う、意味?」
「少しでも君に好かれる要素が自分に有る事が、堪らなく嬉しいんだ。君には、俺に夢中になって欲しいから。俺が、君に夢中なように」
一気に言い切ると、照れを誤魔化す為にコーヒーに口を付ける。馥郁とした俺好みの薫りが鼻に抜け、ゆっくりと好みの味わいが口の中に拡がって、思わず笑みも深くなる。学君を見ると、どうしてか、固まっていた。
「コーヒー、良ければ冷めない内にどうぞ」
勧めると、学君は、何故かぎくしゃくした動きでカップを手に取り、ちら、と俺を見上げて、コーヒーを口に含んでいた。もしかして、と思う。
「余り、口説かれ慣れていない?」
俺が問い掛けると、学君は一瞬目を彷徨わせ、それからゆっくりと頷いた。
「経験、少ない、ってさっき言ったじゃん」
口を尖らせて言う様は、思わず唇を寄せてしまいたくなるくらい可愛くて、俺は困ってしまった。それに、彼が告げた内容にも嬉しくなる。慣れていない、と言う事はまっさらだ、と言う事だ。きっと、俺色に簡単に染まってくれるのだろう。勿論、彼にそれなりの経験が有ったって、俺は何とかして俺色に染めようとするだろうけど。恋愛に関しては、俺はどちらかと言うと慎重派だと思っていたけど、そうでも無かったらしい。彼を早く俺色に染めたくて、気が急いてしまう。落ち着け、と言い聞かせる。彼は、猫のような所が有るから、余りにも押し過ぎたり強引だったりすると、きっと引いてしまうだろう。
「そう言っていたね。嬉しいな。でも、慣れてくれるともっと嬉しい」
俺が口を開くと、カップから口を離し、学君は俺の顔を見上げて来た。にっこりともう一度笑い掛ける。
「これから、沢山、口説く予定だから」
学君は、一瞬固まって、それから顔を真っ赤にすると、俯いてしまった。さら、と染めていない黒い髪が揺れる。
「付き合うんなら、口説く必要、無くない?」
言われて、考え方の違いに戸惑ってしまう。俺としては、付き合うからこそ口説く物だと思っていたのだが。理由としては、自分に飽きてしまわないように、と言う思いが一番強いし、どれだけ自分が相手を想っているか示すと言う意味合いも有るし、ベッドへと誘う文句と言う事も有った。まあ、最後の理由は今日はちょっと急ぎ過ぎると思うから、置いておこう、と思うが。
「俺としては、学君に俺をずっと想っていて欲しいと言う思いが有るから口説きたいし、どれだけ俺が君を好きか知って貰いたいから口説きたいと思うよ」
「……そんなの、必要ねーし」
ややあって、学君は照れ臭そうにぼそりと口を開いた。意味を図りかね、俺は首を捻った。
ちら、と一瞬その飴色の瞳を俺に向けると、直ぐに視線を床へと落とし、学君は口を開く。
「要さんの事、俺、すげー好きだし、要さんが俺を好きだってのも、すげー分かるから」
ああ、参ったな、と思った。俺は利き手で顔を覆う。勿論、赤くなった顔を隠す為だ。コーヒーカップをガラスのローテーブルに置くと、こん、と音がした。ふう、と息を吐いて、顔の熱を逃がす。上手く行ったかどうかは分からないが。
「学君」
俺の口からは、俺が思ったよりずっと切羽詰まった色合いが滲んでいた。それを感じ取ったのか否か分からないが、学君もコーヒーカップをローテーブルに置くと、俺の方を向いてくれる。
「えっと、何?」
窺うように真剣な顔で問い掛けられて、俺もしっかりと学君に向き合うと、口を開いた。
「今、物凄く君にキスがしたいんだけど、良いかな?」
ぽかん、とした顔をされる。あ、その表情もなかなか可愛いな、と思った。少し伸び気味の前髪を払って額を露にすると、何故か学君の顔は見る見る内に真っ赤に染まった。つられて、俺まで赤くなってしまう。
「……そ、そう言うのって、普通、言わなくない?」
暫く見詰め合っていたら、学君は小さな声で抗議するように言って来た。俺は、確かにムードも大切にするタイプだけど、相手の思いはもっと大切にしたいタイプだ。特に、学君の事は、すごく大切にしたいと思っていた。だから、ゆっくりと首を横に振って否定を口にした。
「いや、きちんと了承を得てからしたい。嫌がる事はしたくないから」
俺が真剣な顔で言うと、困ったように眉尻を下げて、学君は小さく何かを言った。聞き取れなくて、学君に近寄ると、身体を引かれてしまい、地味にショックを受けた。
「もしかして、嫌、かな?」
もう一度問い掛けると、学君は益々眉尻を下げ、けれど、首を横に数回振ってくれる。一気に自分の表情が変わるのが分かった。ポーカーフェイスは得意な方だと思っていたけれど、どうも思ったよりも俺は表情が変わってしまう人間だったようだ。学君の前、限定かもしれないが。
「じゃあ、キス、しようか?」
「……う、うん」
問い掛けに頷かれ、俺は先程も払った学君の額に掛かる前髪に触れ、そのまま頬を包むように撫で下ろした。ぴくりと震える学君の様子から、もしかして、と思う。彼は、キスの経験も少ないのかもしれない、と。だったら尚更、ゆっくりと進めなくては、と自分の忍耐力の紐を引き締めて、先ずは、額にそっと唇を押し当てる事にした。
「え、と?」
「これは、嫌じゃない?」
「う、うん」
戸惑う様子を見せる学君は、嫌がる様子も無かったから、そのまま唇を下げて行く。ちょっと上向きの小鼻に唇を押し付ける。それにも、大人しくじっと俺を見ている学君を見て、俺は口を開いた。
「良ければ、目を閉じてくれるかな?」
言うと、今気付いた、と言う様子で慌てて目蓋を落としたので、そっと、その目蓋にも唇を寄せる。睫毛に息が掛かってくすぐったかったのか、「んっ」と甘い声が上がった。気を良くして、俺は頬にも唇を落とし、何度かさらりと黒髪を梳いた。ああ、幸せだな、と思った。
「あのっ、」
けれど、学君はそうは思ってくれなかったのか、困ったような声が掛かって、俺は閉じていた目蓋を押し開いた。飴色の瞳と視線が合って、うっとりしてしまう。学君は、少し唇を尖らせていた。その仕草が、やっぱり、色っぽいな、と思う。
「キス、しないの?」
問われて、思わず苦笑が滲んだ。学君は、唇へのキスだけがキスだと思っているらしい。今まで付き合って来た男は、碌でも無い男ばかりだったんだな、と思った。
「これも、キス、だよ? 気持ち良く無いかい?」
俺が微笑み掛けると、目を丸くして、それから、ちょっと眉根を寄せて、学君は困ったように首を傾げた。
「気持ち、良いけど。でも、その……」
言い淀む学君を視線で促すと、しっかり俺の瞳を見据え、学君ははっきりと言葉を口にした。
「口に、キス、して欲しい」
言われて、俺は益々笑みを深めると、首を縦に振って、それから、彼の要望に応えるべく顔を近付けたのだった。
何度か学君の柔らかい唇を堪能していた時だった。無粋なバイブレーションの音が響いた。俺の物では無い。とすると、学君のモバイルフォンだろう。仕方無く唇を離して、さらりと学君の髪を撫でると、目線で促す。
「メール? それとも電話、かな?」
「あ、多分、電話だ……あー、ごめん、ちょっと、出て良い?」
「勿論。ゲストルームを使ってくれると良い。右から二番目の部屋だよ」
俺が断腸の思いを隠し、あっさり身体を離すと、学君はちょっと不満だったのか、唇を尖らせてから、首を巡らして部屋を確認し、立ち上がった。唇を尖らせるのは止めて欲しい。可愛くて、引き留めたくなってしまうのだから。学君の腕を引き寄せ掛ける手を反対の手で抑えて笑顔を作ると、学君は足を進めながら頭を下げた。
「じゃ、借りる。ありがと」
急ぎの用事なのだろう、と自分に言い聞かせる。そして、そう言えば、と思い至って、自分自身も連絡を取るべくベッドルームに足を動かした。
モバイルフォンをズボンの後ろポケットから取り出すと、電話帳を開き、畠澤の番号を探す。通話ボタンを押すと、三コールで相手は出た。
「畠澤です。お疲れ様です!」
「うん、要です。お疲れ様。会合の予定はどうなった?」
問い掛けると、ややあって、申し訳無さそうな声が耳に届いた。
「お相手に平日を申し入れたんですが、すみません、明日、どうしてもお願いしたい、と言い切られてしまって……」
「明日の、昼だね? 分かった。良いよ」
俺が請け負うと、息を飲む音が届いた。
「え、良いんですか? 一世一代のイベントが、これから有るんじゃないですか!?」
畠澤の言葉に、俺はモバイルフォンを耳から放し、思わずじっとその画面を見据えてしまった。そして、また耳に戻すと、利き手でこめかみを押さえて詰問してしまう。
「荻山は、君に何て言って申し送ったの?」
「あ、え、いや……すみません。勝手に私がそう判断しただけなんですが、その……」
俺の口調から俺の機嫌を感じ取ったのか、焦りを感じさせる畠澤の早口の声が届いた。俺がプライベートに口を出される事を嫌がると、彼女も知っている筈なのだが。はあ、と息を吐き出して気持ちを落ち着けると、苦笑を滲ませて言葉をつなげる。
「まあ、今日は気分が良いから不問にしよう。明日の手配はお願い出来る?」
「は、はい! ちゃんとしておきます!! すみません」
ごん、とまた鈍い音がして、彼女がまた何処かに頭をぶつけたのか気にはなったが、そうそう時間を取られたくも無いと思って、適当に会話を幾つか交わすと、終話ボタンを押した。そして、リビングルームに戻らなければ、と身体を捻る。恐らく、そろそろ学君も電話を終えているだろう、と思ったからだ。
モバイルフォンを片手に持ちながらベッドルームから出ると、丁度良いタイミングだったらしい、リビングルームに学君も戻っていた。
「そろそろ昼だけど、何が食べたいかな?」
問い掛けると、きょとん、とした顔をして、学君は俺を見上げて来る。ああ、身長差のせいで自然となる上目遣いが可愛くて堪らないな、と思った。
「えっと、何でも良いけど……聞かないの?」
「勿論、君の好みは優先したいから、聞きたいな」
俺は、彼の言いたい事を分かっていながら、とぼけて答える。すると、学君は余計に気になったらしく、そっと俺の袖を引いて近付いて来た。
「俺は、気になるから、聞きたい。誰と電話してた? 俺は、家族とだけど……」
不安げに見詰められて、しまったな、と思った。慌てて口を開く。
「ごめん。誤魔化したかった訳じゃ無いんだ。今の段階で、何処まで踏み込んで良いか分からなくてね。俺は、秘書の畠澤と言う子と話していたんだ。今日、仕事を延期して貰った関係でね」
俺がそう言うと、は、としたように目を見開いた学君は、途端に慌てたように、「え、え、」と短く声を上げた。
「どうか、した?」
「だって、今日、仕事、有ったんだろ? い、行かなくて良いワケ?」
困ったように口に手を当てるのは、癖だろうか、と思う。可愛い癖だな、とも。俺は首を横に振ると、慌てる学君に微笑み掛けた。
「延期出来たからね。部下が優秀だから、今日じゃなくて明日に変えて貰えたんだ」
「あ、そ、そっか。良かった」
明らかに安堵した様子の学君を見て、俺は、関心と言うか好奇心と言うか、そう言う思いをくすぐられてしまう。
「学君さえ、嫌じゃ無ければ、色々聞きたいんだけれど。例えば、趣味とか特技とか、もっと言うと家族の事とか」
俺がそう言うと、学君は大きく頷いて、もう一度俺を上目遣いで見て来た。
「嫌じゃねえし。俺も、要さんの事、知りたい」
はっきりと言葉にされて、喜びが身体中を駆け巡る。学君の瞳を見ていると本当に吸い込まれそうで、困るな、と思った。どうにも落ち着かない気持ちを抱えながら、俺は、さり気なく学君をソファへと促した。視線が外れて、少し心が落ち着いたのは、内緒だ。
「それは嬉しいな。じゃあ、ケータリングでも取ってから、話そうか? その方が落ち着いて会話出来るからね。嫌いな物だけ、とりあえず、教えて貰えるかな?」
「ニンジン、とパセリ。後、パクチーがダメ」
「OK。なら、エスニック料理は止めておこう。無難に洋食で良いかな?」
モバイルフォンを操作し、普段使っているケータリング業者を幾つかピックアップする。味付けは濃い方が好きだろうか、それとも薄い方が好きだろうか。それを聞こうとしたら、いつの間にか俺のモバイルフォンを覗き込んでいた学君が、おずおずと口を開いた。
「あ、あのさ、普通にピザとかで良いんだけど……」
「ピザ? と言う事はイタリアンかい?」
「……ごめん。俺が注文して良い?」
今度は、はっきりと主張されて、食べたい物が有るのかと納得する。
「え、ああ、勿論、構わないよ。じゃあ、俺が利用している業者を……」
「それも! 俺が! 指定するから!」
モバイルフォンを渡そうとしたら、もう一度、今度はさっき以上に強く言われて、俺は頷くしか無かった。
「……了解。じゃあ、お願いしよう」
学君は、何かを決意したような表情で、自分のモバイルフォンを手早く操作していた。
生まれて初めて宅配ピザと言う物を食べて、俺は驚きで目を丸くしてしまった。温かいのにも驚いたのだが、何しろ、味が意外と良かった事に驚いてしまったのだ。ケータリングしか頼んで来なかったけど、デリバリーも捨てた物じゃないな、と改めて感じる。反省点だ。だが、まあ、会社での慰労会はやっぱりケータリングの方が良いだろう、と思った。やはり、規模的に、限界が有りそうな雰囲気だったからだ。
「宅配ピザも良い物だね」
俺が笑って言うと、学君は大きく息を吐いて、何故か何度か首を横に振っていた。三ピース目が、その手に取られる。俺も、三ピース目を手にした。
「ホント、俺、要さんと世界が違うのな……」
「そんな事無いよ。俺もケータリングはよく使う」
彼の言葉に、二人の間に線を引かれたような気がして、慌てて言うと、学君は眉を寄せる。手にしていたピザを口に含み、しっかり咀嚼し飲み込むと、口を開いた。ああ、躾がしっかりされているんだな、と思った。
「ケータリング、ってアレだろ? 機材とかも持ち込んで来るヤツ」
「ああ、何だ知っているじゃないか」
自分のしている事が、普通の事だ、と安堵する。だが、学君の口からは溜め息が漏れた。俺は、ゆっくりとピザにかぶり付き、しっかり噛み締める。今度の味は、四種のチーズだった。耳が、美味しい。
「普通、個人ではケータリングは頻繁に利用しないっての。俺は、会社で頼んだ事が有るから知ってるだけ」
「そう、かな? 主婦の間でも、よく使われるって言っていたけど……」
以前、ケータリング業者の経営者にそう言われた事を思い出して口にすると、学君はペーパータオルで手を拭いてから、大きくかぶりを振った。はらはらと揺れる、その染めていない髪が綺麗だな、と思う。ピザを持っていなかったら、指を通したかった。
「セレブな主婦の間ではね。もしくはハロウィンとかクリスマスとか、そう言う特別なパーティーの時だけだよ」
「……成る程。勉強になるね」
学君の言葉に、思わず俺が苦し紛れの返事をしたのは、勘弁して欲しい。
ややあって、学君は、不安げな目をして俺を仰ぎ見た。
「あのさ、聞いても良い?」
「うん、何かな?」
「要さんって、何している人?」
来たか、と思った。学君は、案外気の早い方なのかもしれない。だが、どうせいつかは知られてしまうのだ。だったら、今でも後でも一緒だろう、とも思う。俺はペーパータオルで手を拭うと、ローテーブルに置いていたモバイルフォンを手に取った。
「多分、見て貰った方が早いかな」
「え、あ、アドレス交換する?」
俺の動きをどう捉えたのか、学君も手早くもう一度手を拭いて、ローテーブルに置いてあった自分のモバイルフォンを手に取ると電話帳を出していた。俺は大きく頷いてから、ホーム画面に固定されているSNSアプリをタップした。
「勿論、それは是非お願いしたいけどね。そうじゃなく、これが、俺の仕事」
「Knet? SNSの代表みたいなもんだけど……え、待って、もしかして!」
学君も同じようにSNSをタップし掛けて、は、としたような顔をして、俺を見た。俺は、にこりと微笑み掛ける。この察しの良さは、好ましいな、と思いながら。
「これを、運営しています。CEO、あー、代表と言えば分かるかな?」
正確には、CEOは最高経営責任者の略だが、まあ、どう言っても俺がこのアプリ運営会社を経営していると言う事実は確実に伝わっただろう。学君は目を真ん丸にして俺とアプリを交互に見ていたが、ぼそりと、やはり小さな声で何かを言って、ちょっと遠い目をしてしまった。こんな事で、距離を置かれたくないな、と思う。俺は、慌てて口を開いた。
「引かれると嫌だから、仕事の事は最後に話したかったんだけど、まあ、どうせいつかは知られる事だからね、教えておくね」
「……ホントに、世界が違うんだ」
学君の言葉に、ひやりとする。急いでモバイルフォンを置くと、学君にしっかりと向き直った。そして、その手をそっと取る。学君の手は、温かかった。
「そう、思わないで欲しいな。今の俺は、学君に恋するただの男だよ?」
飴色の瞳を見詰めながら訴え掛ける。俺の比較的冷たい手は、学君の温かい手の熱を貰い、段々と温かくなって行っていた。じ、と俺の手を見て、それから、俺の顔を見て、ふ、と笑うと学君はいとけなく頷いてくれた。
「……うん、そっか、そうだよな」
大きく安堵する。これで、立場や世界が違うから、恋人にはなれない、なんて前言撤回されたら、目も当てられない。俺も笑みを見せて、もう一度モバイルフォンを手に取ると、アプリをタップし起動した。
「じゃあ、とりあえず、アドレス交換してくれるかな?」
「あ、じゃ、QRコードで良い?」
「勿論、良いよ」
使い慣れているのか、あっと言う間にアプリを起動し、QRコード画面を出すと差し出して来る。俺は、ちょっともたつきながら、それを読み取った。ぴろりん、と言う軽快な音と共に、『学』と言う何とも端的なニックネームが表示される。それをタップして友達登録した。だが、アプリのアドレス交換だけでは不安だったので、言葉を続ける。
「良ければ、電話番号とメールアドレスも交換して貰えるかな?」
「じゃあ、友達登録してから、メッセージで送る」
「お願いします」
たたた、と指がモバイルフォンの上を円滑に動き、友達登録された事を知らせる軽快な音が、俺のモバイルフォンからも聞こえた。急いでメッセージを見ると、いつの間に打ったのか、電話番号とメールアドレスと『よろしく』とカードを咥えた犬のスタンプが表示されていた。その早業に、ちょっと、ジェネレーションギャップを感じてしまう。俺は、間違えないようにメッセージをゆっくりと打ち込む事にした。
「コレ、俺、めっちゃ使ってる。一番、使い勝手が良いから。友達ともだけど、別リスト化して会社でも使ってるし」
俺の遅い操作を横目で見ながら、学君が嬉しい事を言ってくれる。俺の口元は、思わず緩んでしまった。使い勝手に関しては、社員達が必死に考え工夫した一番の点だったからだ。
「そう言うユーザーの声は嬉しいな。会社の子達にも聞かせてあげたいね。きっと喜ぶ」
「ホント、便利だと思うよ」
俺が漸くメッセージ内容を打ち終わり、送信ボタンを押すと、学君は口を開きながら事も無げにまた、たたた、とモバイルフォンを操作し、そして、終わったらしく、ぽい、とローテーブルに置いていた。
「ありがとう。それで、学君は?」
「え?」
「何の仕事をしているのかな?」
俺が問い掛けると、何故か一瞬、中空を眺めた学君は、うん、と頷いて口を開く。
「あー、一応、SEしてます」
「SE! 大変な仕事だね」
会社のSE達も、本当に大変な思いをしながらアプリ開発をしてくれている。社内のPC関係の管理もそちらの仕事だから、きっと負担は大きいだろう。そう思って、言葉を連ねると、苦笑された。
「いや、まあ、俺は普通に会社員だけど。俺の勤めている会社はそこまでブラックでも無いし。まあ、納期が迫るとデスマーチにはなるけど」
「デスマーチ……深夜まで働く事もあるのかな?」
「納期が迫ってない平日は、七時とかには上がれるけど、デスマーチになると泊まり込みも結構有るかな」
その言葉に、思わず眉間に皺が寄る。会社では、SEの泊まり込みは無かった筈だ。いや、偶に休日出勤がある事は有ったか。アプリのエラーの修正が出ると、どうしても彼らの仕事の出番となるのだ。
「……ブラックじゃ無いのかい?」
それでも、納得が行かず不安から問い掛けると、学君は、ふるふる、と首を横に振った。
「まあ、普段が楽な方だから、多分、優良企業だと思う」
「無理はしていない?」
「全然。仕事、結構、楽しんでる方だと思う。好きなんだSEの仕事」
そう言った学君の顔は明るくて、俺は安堵と共に不安を抱いた。会社のSE達は、働き甲斐は感じてくれているだろうか、と。一度、会社でSE達に話を聞かねば、と頭の隅に書き込む。
「それは良いね。そうか、じゃあ、PCの事で困った時は頼って良いって事だね」
俺が笑いながら窺うように首を傾げると、学君は、ふわ、と大きく破顔した。くしゃくしゃのその顔に、胸が締め付けられるように痛む。可愛くて、愛おしくて、だった。
「あはは、まあ、分かる範囲なら、何とかするよ」
「Knetに関する事で分からない事が有ったら、聞いてね」
手を伸ばして彼をこの腕に抱き留めたくなる想いを押し殺しながら、笑って言うと、学君は困った顔をした。
「……要さんより、俺、多分コレ使いこなしていると思う」
「う、それは、そうかもしれないなあ」
先程の操作の速さを思い出し、俺は、苦笑するしか無いのだった。
それから二人でピザを片付け終えて、俺は、一番聞きたかった事を聞く事に決め、学君の方を向いた。
「家族構成を聞いても良いかな?」
「うん。今は一人暮らしだけど、実家は両親が居て、別に姉が居る。で、後、実家には犬が居る。二匹。一匹がダックスで、もう一匹がトイプードル」
学君は、軽く首を傾げた後、事も無げに返事をくれる。成る程、と心の中で頷きながら、記憶のノートにしっかりと書き記して行く。
「犬が好きなのか。猫は、苦手?」
苦手だとしたら、家に連れて行く際にちょっと面倒だな、と思ったのだ。俺は、この時点で、学君を家族に紹介する気で居た。勿論、彼に了承を取ってから進める事だけど。でも、絶対に紹介したいと思っていた。
「いや、どっちも好き。昔は猫も飼ってたんだけど、交通事故で亡くしてから、姉貴が猫はもう止めるって言って飼ってないだけ」
「それは良かった。俺も、ここでは一人暮らしをしていて、実家には両親と父方の祖母と妹二人、それから猫が三匹居てね」
俺が笑いながら言うと、学君は少し眉を上げ意外そうな表情をした。
「へえ、そうなんだ。要さんって勝手なイメージで犬を飼ってると思ってた」
指摘されて、苦笑が滲む。忠実な犬タイプの人間ばかり扱っているとでも思われてしまったのだろうか。いや、それは考え過ぎか。
「どちらかと言うと、猫派なんだ。番犬で、ドーベルマンは三匹居るけどね」
実家を思い出して、つい口元が緩む。番犬、と言っても俺達家族には懐いてくれる可愛い子達なのだ。ただ、赤の他人には当然厳しいので、学君を連れて行く時は、気を付けなければ、と思った。
「番犬か。……猫は、何飼ってんの?」
「マンチカンとスコティッシュフォールド二匹だよ。マンチカンは本当に懐っこい子でね。スコティッシュフォールドの方は、一匹がやんちゃでもう一匹が大人しい子なんだ」
問われて、今飼っている三匹を思い出しながら答える。三匹とも、とても個性の強い子達だが、きっと学君の事は気に入ってくれるだろう。
「写真とか有る?」
興味が有るのか、身を乗り出して聞かれる。俺は、モバイルフォンを手に取ると、頷いた。
「あー多分、妹達から、メッセージで色々送られて来ていたかな……ちょっと待ってね」
写真のアルバムを開きながら、どれを見せるべきかな、と迷ってしまう。妹達が映り込んでいる写真が多いからだ。まあ、見せても良いが、それは家族を紹介した後の方が良いだろう。とん、と肘に何かが触れる。学君の肘だった。どきり、と胸が跳ねる。
「俺の家の犬も見る?」
楽しそうに如何にも自然に笑いながら聞かれ、俺は直ぐに頷いた。彼の緊張が解けて来ているのが本当に嬉しかった。
「ああ、是非見たいね」
結局、家族の話題でその日は終わる事となった。勿論、折を見ては口付けを交わす事もしたが。ただ、俺自身は明日の事もあるし、学君は経験が少ないと言っていたから、深い口付けは我慢する事にした。焦らなくて良い、と俺は思っていた。魔法に掛けられたよう、あっと言う間に彼に囚われて落ちてしまった恋だけど、こうやって話す事でその存在を感じられ、信頼を分かち合い、しっかり二人で進めていると感じられたから。少しずつ少しずつ進んで行こう、そう思っていた。
一週間も会えない期間が有って、その事が、まさか俺をあそこまで追い詰め焦らせるとは、思っていなかったのだ。本当に、恋と言うのは囚われると難しい物だ。
魔法に囚われて 一章 おわり
とりあえず、要さん視点の話はこれで終わりになります。
次回は、二人が初めて結ばれる話か、要さんが家族に紹介したいと言い出す話になる予定です。良ければ、また覗いてくださると嬉しいです。
ともだちにシェアしよう!