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出版記念パーティーの夜(1)(side 真誠)
もっとしっかり覚えておくつもりだった。生まれて初めての大きな文学賞の受賞と、それに伴う出版記念パーティー。自分にとって大きな転機となる出来事だと、そう腹に力を入れていた。
しかし、仕事はすでに編集者が交通整理してくれなければとても受けきれない程に入ってきていた。慣れないインタビューも続き、憧れていた多忙に早くも忙殺され始めていて、ファイルした凪桜さんからの手紙を読み返すのが唯一の息抜きになっていた。
ずっと会いたいと思っていたのに、感動の再会はほんの一瞬。勢い余って抱き締めて、照れくさく離れ、すぐ時間に迫られていることに気づいて電車を乗り継ぎ、会場へ飛び込んだ。
「こんな広いんですか。招待客が全員来たって、埋まらない」
主催者の買いかぶりに立ち尽くしている俺の隣で、凪桜さんも部屋をちらりと見て「うん、広いね」と言う。
「ね、凪桜さん。広いよね、これ」
縋るように話し掛けたが、凪桜さんの興味は部屋の広さよりも、ナイロン製のビジネスリュックから筆記用具を取り出すことだったらしい。俺が振り向いたときには、リュックサックについているたくさんのファスナーを片っ端から開けて、手を突っ込んでいた。
ペンポーチが引っ張り出されるのを見ていたら、さらに何かを探してリュックサックの中を探りながら、凪桜さんは言った。
「大丈夫だよ。人数が少なかったら、前の方に集まってもらえばいいんだから」
「それってライブハウスのやり方なんじゃ……」
「同じだよ」
「……なるほど」
すとんと腑に落ちて肩の力が抜けた。凪桜さんの一言は、気負って狭くなる視野を広くする力があると思った。
しかしパーティーが始まってみれば、多くの人がやってきて、部屋の温度が上がり、熱に浮かされるような気分で頭を下げ、謝辞を述べ、握手をし、肩を叩かれ、食事に手を着ける余裕もないまま、ほっと息をついたときには会場は空っぽになっていた。
「飲みに行きましょうって」
凪桜さんに人差し指の先で肩を叩かれ、コツコツと振動が鎖骨まで響いて、ただ頷いて人の群れについて行った。
さりげなく奥の席を他の人に譲って、凪桜さんの向かい側に陣取った。照明は控えめで、耳を澄ませるとジャズが聞こえる接待向けの居酒屋といった趣の店で、酒の種類はいくらでもある。
「榊原先生は何をお飲みになりますか」
編集者に声を掛けられて、凪桜さんの前には梅酒のロックが運ばれてきた。梅酒が好きなのか、あるいは強い酒を好まないのか。でもアルコールが全くダメということではないらしい。ロックグラスに氷山のような氷が、琥珀色の梅酒にゆらゆらと溶け出していく。凪桜さんの細くて長い指がグラスを掴み、薄い唇へ押しあてられて、僅かに開いた口の中へするすると流れ込んでいった。
座持ちのいい人がいて、宴は盛り上がり、自分に発言を求めようとする人がいなくて、居心地がいい。
俺は冷たいビールをゆっくり飲んで、目の前でほかの人の話に笑い、梅酒ロックで唇を湿らせる凪桜さんを観賞した。
静かに凪桜さんを観賞しているだけで、あっという間に時間が過ぎたらしい。また人差し指の先でコツコツと肩の骨を叩かれた。
二次会を言い出す人はなく、その場で解散になって、のんびりと駅までの道を歩いた。凪桜さんと一緒にいたかったから、のんびり歩いた。のんびり。
「真誠さん、お腹空かない?」
そう言った凪桜さんの視線の先にはサイゼリヤがあって、その親しみやすい店構えに俺は頷いた。
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