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出版記念パーティーの夜(5)(side 真誠)

 握手をして別れた。 「ウチに泊まれば」 とは、結局言えなかった。  目黒川沿いの小さくて古いマンションへ帰り着き、自分の部屋とは思えないほど片付いた部屋へ足を踏み入れる。  万が一、と自分に言い聞かせながら買った、来客用の寝具セットが不織布製のケースに入って仕事部屋の隅に置いてある。  スマホを充電しながらパソコンを立ち上げ、今日一日分のメールに目を通し、原稿の続きを書いて、半分まで完成させた下書きを編集者に送って、今日の出来事をエッセイに書いてそれも送り、気づいたときには午前二時で、俺は明日の万が一に備えて机の上のものを全て片付け、不要になった原稿はシュレッダーに掛けて、寝室のベッドにもぐりこんだ。  ベッドのリネン類も新調してあって、俺は一体どこまで念には念を入れているのかという呆れもあるが、念を入れてなくて嫌な思いをするよりずっといい。  枕元の引き出し付きティッシュボックスの引き出し部分には、それこそ億万が一くらいに備えた物も入れてある。いいんだ、それが男の嗜みだ。  水まわりも含め、あらゆる場所を徹底的に大掃除できたから、年末は何もしなくていいだろう。  片付いてがらんどうになった部屋で、凪桜さんの横顔や髪に絡む指の感触、握手した手の心地よい冷たさを思い出しながら眠りに落ちた。 「凪桜さん、ゆっくり過ごせてるかな」 ***  毎日七時間は睡眠時間を確保したい俺が、午前二時過ぎに寝たにも関わらず、待ち合わせ時間の二時間前にはすっきりと目覚めた。 「遠足前の子どもみたいだ」  カビもヌメリもカルキの白残りもないバスルームでシャワーを浴びて、たっぷり補充してあるシャンプーとボディソープを使って全身を丹念に洗って、ヒゲを剃り落とし、洗い立てのジーンズとカットソーにギンガムチェックのカッターシャツを羽織った。  自宅の近くに凪桜さんがいて、同じ空の下で一晩を過ごしたなんて、心が浮つく。  信号待ちをしているところで、『おはよう。一階にいる』とメッセージを受信して、俺は駆け足で横断歩道を渡った。  ビジネスホテルの自動ドアの前に、凪桜さんが立っていた。 「真誠さん、おはよう」  凪桜さんの口から発せられる何気ない挨拶を、新鮮な気持ちで聞いた。

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