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月曜日の夜(15)(side 真誠)
押しつけられた梅の半分。俺は与えられるまま黙って口を開けた。凪桜さんの細い指が一瞬唇に触れて、思わず目をすがめる。しかも凪桜さんはその指を無意識に自分の舌先で舐めた。
小説の登場人物だったら、俺は間違いなくこう書く。
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真誠は凪桜の細い手を掴み、漆黒の瞳を覗き込む。
「君は、ひょっとして僕のことを誘惑しているのかい? よもや違うとは言わせないよ」
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でも、現実の俺は凪桜さんが愛猫家なことを知っていて、どうやら自分が猫と大差ない扱いを受けていると察する。猫様と同等と喜ぶべきか、じゃれついて膝に乗るたびに下ろされる悲しさを味わうべきか、わからないけど。
かりりと青梅に歯を立て、かみ砕いて、種をティッシュペーパーの内側に包む。
噛みながら、トレイルランの実況動画を再び探した。
「ただの登山だってきついのに、その道をさらに走る人の心理がわからない。しかもこんなに楽しそうに」
参加者もボランティアスタッフも楽しそうに歓声をあげ、手を振って走る。いい景色があればスマホに収め、互いに声も掛け合って登り、下り坂を軽快なフットワークで飛び跳ねて、ゴール地点では互いの健闘を心の底から讃え合う。
この素晴らしいほどの爽快感と、楽しんでいる姿は中毒性があった。
「真誠さん、すっかりハマったね」
凪桜さんに笑われながら、何本もの動画を見た。
抱えた膝に顎をのせてモニター画面に見入っていたら、くつろいで姿勢の崩れた凪桜さんが、俺の肩に寄りかかってきた。片手は背後のベッドの上にあり、まだ俺の髪を触っている。
さて、なんと言おうか思案した。
関係は壊したくない。でもこれ以上の無自覚な接近や接触は困る。俺が小説を書くからって、言葉の扱いが容易な訳じゃない。だから思案した割に名セリフは出てこなかった。
「凪桜さん。俺、髪の毛は性感帯なんだよね。あんまり触られると、キスしたくなる」
凪桜さんは目を丸くした。
「え? じゃあ美容院は、どうしてるの?」
そうきたかぁ。そう切り返してきたかぁ。
「シチュエーションによるというか。開放された空間で事務的に髪を扱われるのはいいんだ。でも二人きりで、身体の距離が近くて、ずっと髪を撫でられると、ちょっと」
「ふうん。くすぐったいところが性感帯っていうしね。気持ちのスイッチが入るかどうかだよね」
理解してくれたのかと思いきや、凪桜さんはまた俺の髪を弄り始めた。
俺がどうなるのか、単純な好奇心。猫じゃらしを振って飛びかかるかなと面白がっている気配だった。
俺は猫じゃらしに飛びつく寸前で踏みとどまり、数ミリ先まで顔を近づける。
「キスしたくなるって言ってるんだけど?」
凪桜さんはまばたきを繰り返しながら、まだ俺の髪を触り続けていて、俺は鼻から小さく溜め息をつくと、凪桜さんの唇に自分の唇を軽く触れさせた。
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