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凪の住処(3)(side 真誠)
小柄な茶トラ猫のチャビ様は、凪桜さんと会話するように鳴く。そのたびに小さな牙が見えて可愛い。ドライフードを小気味よい音を立てて食べる間、凪桜さんの手が頭や背中を撫でても平気だ。
餌を食べ終えたチャビ様は歩く途中で足を止め、俺のことを見る。人差し指を差し出すとそっと鼻を近づけてくれた。少しくらい撫でてもよかったかも知れないけど、まずはここまで。
土間でサンダルを履いたまま、テーブルに向かって食事をするなんて、初めての経験だ。
庭に生っているレモンをもいできて、サラダにかけるという経験も。
土間にテーブル、ステンレス製のシステムキッチン、水色のビートル。彼が一番似合う場所は、こんな場所だったんだ。
乾くより先に引き剥がして新陳代謝を促すような東京の街が似合わなくて当たり前だ。
レモンを絞る手、塩を振り掛ける指先、テーブルの角を挟んだ九〇度の向きに座り、ソースが絡んだパスタをするりと含む口。
いいなぁ、エロいなぁ。好きな人が物を食べる口って、どうしてこんなにいいんだろう。
俺はまたこんなことを考えている。
「いつでも教えるけど、今日はとりあえず仕事したほうがいいんじゃないかな」
不意に現実を教えられて、俺は背筋を伸ばした。
「ここでなら直ぐに終わらせられる! 楽しみがいっぱいあるから頑張る」
居間の座卓を作業スペースとして与えられ、適当にでも本のページが折れたりしないように気をつけて、物を積み上げたり、押しのけたり、畳の上にどかしたりして、タブレットPCを置くスペースを確保した。
電源を入れ、パスワードを入力し、WiFiを繋いだら、さあ仕事の始まりだ。
実際に掲載されるフォーマットで文書作成ソフトに文字を打ち込んでいく。
書くたびに行き当たる疑問点は、取材したときのテキストメモや写真、PDF、国会図書館や博物館や資料館のデータベースなどを辿りながら書き進む。
物語は江戸時代後期の江戸・京橋あたり。表通りから木戸を潜り、棟割長屋が並ぶ胸突き合わせるような狭い路地を抜け、ぽっかりと空いた場所に井戸がある。
佐吉は棒手振りで魚を売り歩き、頼まれれば井戸端でその魚を下ろしてもいた。
そのときふと井戸端で女たちの話を聞いて、思いつく。
「こいつぁ『流水丸 』ってのさ。魚の白子を八幡様の水で洗い、丹念に炒って作った。交わるときに飲めば、子を孕むことがない……かも知れない」
まったくの思いつき、魚を買ってくれる常連に縁起物のつもりで売り始めたが、佐吉の想像を遥かに超えて大流行、効き目があるだの、ないだの、堕胎にも効果があるなど喧伝されて、偽物まで売られる始末。
寄ってくる人、離れていく人、唆す人、崇める人。見合い話は舞い込むし、お三味線の師匠をしている美しい年増にも言い寄られる。翻弄されて、さあどうなるか。
魚、魚、日本橋の魚河岸の、鯵だ、鰯だ、平目だと書き連ねていたからか、気づけば隣にチャビ様がいた。
「チャビ様、魚は好き?」
「にゃー」
「そう。素敵な首輪をしているね。凪桜さんに選んでもらったのかな?」
「にゃあん」
「可愛い茶トラ模様に、よく似合ってる」
チャビ様は少し胸を張り、俺が手の甲を差し出すと、首を捻って頭のてっぺんを擦り付けてくれた。
「ありがとう。ずっと一人暮らしだったから、相槌を打って構ってもらえるのって、ありがたいよ」
俺は小説の世界に戻った。凪桜さんが立てる物音がいいBGMになる。
ベッドの中で過ごしたり、ここまで移動したりで時間をロスしているのに、大まかな下書きは完成して、あとは一晩寝かせて読み返し、修正すればいいところまで来た。
「チャビ様、とりあえず今日は終わったよ」
「にゃー」
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