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凪の住処(18)(side 真誠)

 凪桜さんは目を覚ました途端、モーニングを食べに行くと言い出し、服を着せられてバタバタと喫茶店へ駆け込んだ。  何事かと思ったけど、あんこまで添えた厚切りトーストが運ばれ、ゆで玉子をコツコツ叩いて割る頃には、凪桜さんは美味しいとニコニコしていて、この人はもともと思い立ったが吉日な人だったと納得する。そういうタイプだと話に聞き、これまでの交際で何となく気配を感じていたものの、実際に目の前で行動され、巻き込まれてみると、とても楽しい。  俺も見切り発車で会社を辞めたり、結局生活費が足りなくてアルバイトで補ったり、品川のサイゼリヤで書くはずの原稿を凪桜さんの家で書いたり、『堅実そう』と見た目で評価される割にそうでもないので、こういう人は大歓迎だ。  そして噂には聞いていたモーニングだが、噂通りでびっくりした。東京にこの感覚はない。新幹線と在来線を乗り継いでたった二時間の距離で、ここまで文化の違いを感じるなんて、面白くて仕方なかった。 「この後、ドラックストアに買い物にいくよ」  ちょうど欲しいものがあった。バタバタと音を立てて走る鉄の塊に乗って、ほんの数分。  レゴブロックの敷地に長方形のブロックを四つくっつけて並べただけのような場所に着いて、そこが駐車場とドラッグストアの建物だった。  金の余裕は心の余裕という言葉は、原稿料で食いつないでいる身としては結構頻繁に実感しているけれど、土地や空の広さも心の余裕なのかも知れない。気持ちが伸びやかだ。  ウチの近所のドラッグストアは歩く場所にも難儀するほどごちゃごちゃしていて、足元の特売品のカゴを蹴ったり、人とすれ違ったら肩が触れてお菓子が落ちてきたり、女子高生に舌打ちされてあーはいはいとやり過ごしたり、常に苛立ち、強気での買い物を強いられるが、この店は凪桜さんがカゴを載せたカートを押して歩く余裕がある。素晴らしい。  俺は広すぎるフロア全体を見回し、勝手がわからなくて薬剤師のプレートをつけた白衣姿の女性を捕まえた。 「すみません、目薬はどこにありますか?」 白衣姿の女性は愛想よく頷いて歩きながら 「メンボウですか?」 と言う。 「いえ、目薬が欲しいんですけど」 「目薬にもいろいろあって、メンボウに効くものや、疲れ目に栄養を与えてあげるもの、コンタクトレンズの目に潤いを与えてあげるものなんかがあるんですよ」 「綿棒に効く?」 首を傾げた俺に手渡されたのは、『ものもらいに効く』と書いてある目薬だった。 「ものもらい……?」 「あれ、ものもらいのこと、メンボウとかメンボって言いません?」 それでようやく合点がいった。 「よそから来てるので、この土地の言葉はわかってなくて。すみません」 そうか。方言があるのか。これは楽しい、と言ったら失礼だろうか。  東京の山の手育ちは味気ない標準語しか話せない。下町の江戸弁すら身についていないので、温もりのある方言には憧れがある。凪桜さんにいろいろ教えてもらおう。  薬剤師と会話が成り立ち、疲れ目用の目薬をカゴに入れ、次に目指すのは衛生用品だ。ローションが欲しい。コンビニで買ったものは量が少なくて一晩で使い切ってしまった。  棚の周辺には自分しかいなくて、堂々と商品を見比べていたら、すいすいカートを押して凪桜さんがやって来た。 「真誠さん、欲しいものあった?」 「んー」 「何を探してるの? 一緒に探そうか?」  天真爛漫に言ってくれるのはありがたいし、こういうものも一緒に相談して買えたら理想だけど。どうなのかな。 「ローションを選んでるんだ。高粘度の乾きにくいやつがいいなと思ってるんだけど、どう?」 「あ、あー。そういうこと……ね……」 コンドームや妊娠検査薬が積み上げられた棚の前に自分から突っ込んできたくせに、凪桜さんは今になって動揺し始めた。たぶん俺を見つけたから軽やかに寄ってきただけで、衛生用品の棚であることは気づいていなかったんだろう。凪桜さんのこういうところ、本当に好きだ。 「粘り気が強いと扱いにくいから、もう少しさらさらしたものでもいいかなとは思うんだけど」 「う、うん。ごめん、全然わからないまま相槌打ってる」 「オーソドックスなのと、高粘度のもの、両方買って比べてみようか。あと試してみたいコンドームがあったんだ。これこれ、柔らかくて使い心地がいいって評判の新商品」 凪桜さんはもう相槌も打てなくなってて、俺はそんな凪桜さんを今すぐ抱き締めて、大丈夫だよってキスしたいなと思いつつ、選んだ商品をカゴに入れた。 「俺の買い物はこれで終わり」 「そ、それ、二人で使うものだから、半分ちゃんと払うよ」 それでも健気なことを言ってくれる凪桜さんに、俺は「次からはそうしよう。今回はいいよ」と返事をして、レジにカゴを差し出した。

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