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凪の住処(20)(side 真誠)

 玄関前に置かれていた新聞紙から出てきたのは黒く乾いた豆で、その皮は弾けていた。  黒豆といえば、おせちに入っている煮物しか知らないが、凪桜さんはころころと急須に入れてお湯を注ぐ。蒸らしながら凪桜さんは教えてくれた。 「黒豆茶だよ。淹れたあとの豆も食べられる」  家の前に置かれている食品を、差出人もわからないまま安心して口にできる。素晴らしい環境だ。東京だったらまず手を触れないし、薬品や爆発物ではないとわかったとしても、捨てるか、場合によっては警察を呼ぶ。  さまざまな事件に学んで、都民は子どもの頃からそう躾られて、落ちているものは人でも空き缶でもすべて避けて歩く。   その生活が当たり前だと思っていたけど、東京って気を張って暮らさなきゃいけない場所だったんだなぁ。  そんなことを考えているうちに、黒豆茶は飲み頃になった。 「香ばしくて美味しい」 そういう俺の言葉を斜め隣で聞いて頷いてくれる人がいるのも、こんなゆっくりお茶を飲む時間を持てるのも、この家ならでは、なんだろうな。 「ねえ、凪桜さん。俺、今夜もここにいていい?」 「いいよ」 「明日も、明後日もいるかもしれない」 「いいよってば。好きなだけいていいよ」 俺は安堵し、残りの黒豆茶を持って立ち上がった。 「仕事する」  居間でノートパソコンを広げ、読み直す。  棒手振(ぼてふ)りで魚を売り歩く主人公・佐吉の気持ちの流れや思考に不自然さはないか、説得性はあるか。本来の性格や人柄がしっかり描けているか。  井戸端での女たちとの会話、持ち歩いているまな板や包丁の使い込んだ描写、桶から取り出した魚の鮮度、鱗をひいて飛んだ鱗が唇に貼り付いたときの感触、魚をおろす佐吉の手際のよさにリアリティはあるか。  足に草鞋(わらじ)を履き、搗き固められた土の上を歩く。ドブ板は踏まずに跨いで、長屋を売り歩くうちに天秤棒は次第に軽くなる。  そうだ葉蘭やヒバを桶へ敷いて、そこに魚を並べる才覚があってはどうだろう。  当時の棒手振りが実際にそういう演出をしたのかどうかではなく、ただちょっとした機転が利く、ほかの棒手振りとはちょっとだけ違うと示す描写になりはしないか。  天候は描けているか。空の色、雲の形は季節に合っているか、扱う魚の種類も季節に合っているか再度確認を。  目で読み、ブツブツと声に出して読み、ヘッドホンをして読み上げソフトに合成音声で読み上げてもらって、文章の流れやリズム、誤字脱字をチェックした。  いつもなら絶対に気に入らない箇所が出てきて悩むのに、久しぶりに納得して原稿を送信する。  案外早く終わってしまい、黒豆茶を手に縁側に座ってみた。  庭に育つ植物のほとんどの名前を知らなくて、緑の上に青い空。海から吹く風には潮の匂いがして、広縁の陽だまりには小柄な茶トラ猫。 「いい環境だなぁ」  ゆるゆると冷めた黒豆茶を飲んでいたら、背後に気配があって、自分の身体の両サイドから、凪桜さんの脚が出てきた。腹に両腕が巻きつき、背中が重くなって、ゆっくりとした深呼吸を一回。 「仕事、終わった?」 おんぶした子どもをあやすような気持ちで訊いてみる。 「うん」  そう言って今度は凪桜さんが俺の腹に手を回したまま後ろに倒れ、俺は凪桜さんの上に仰向けになって空を見た。雲はなく、この水色の向こうには宇宙がある、そんなことが実感できそうなほどに澄み切っていた。 「いいところだね」 「中途半端な田舎だよ」 「だから暮らしやすい。呼吸もしやすい気がする」 「そう?」  俺は頷きながら、後ろ手に凪桜さんの頬を撫でた。

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