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今年も猫年(7)(side 凪桜)

真誠さんは笑いながらサラリと気になることを言った。 僕は何事もなかったかのように手を動かし続けたけど。 サイシモチ……クワレタ……。何かの呪文みたい。 僕はその時のその本を持っている。小説の雰囲気に合わないチグハグな挿絵、装丁も何もかも雑な感じ……。僕が思う真誠さんの本じゃなくて気持ち悪かった。今もまた手足の力がサラサラと砂になっていくみたいに気持ち悪い。 僕はその時何してた? 去年の年末は、真誠さんの連載にファンアートを送った後?チャビがやってきた年? 考えながら黒豆の煮汁を作って火にかけた。真誠さんは豆を洗ってる。 「真誠さん、聞いてもいい?」 「なにー? 豆はどうしたらいい?」 真誠さん楽しそう。なんとなくリズムに乗ってるのは中島みゆきの続きなんだろうか。楽しそうなところにこの気持ちを割り込ませたくなくて 「この汁が沸騰したら豆を入れる」 と、答えて土間と部屋の段差に腰を下ろし、鍋を見張ってる真誠さんの後ろ姿を踵から頭のてっぺんまで眺めた。僕の買ったサンダル、僕のシャツ、僕がカットした髪。 「ねぇ、真誠さんこっちにきて」 ほんの2、3歩先にいる真誠さんを呼び寄せて手を引き膝の上に座らせた。後ろから手を回して抱きついて 「マコトサンハ、ボクトイッショニ、シアワセニナル」 と、呪文をかける。誰かの呪文とちがってわかりやすい。 「もちろんだよ、もう既に幸せだけど。なんで?」 「なんでもない。なんとなくそう言いたかっただけ」 顔は見せずにしがみつくように手に力を入れた。 去年の今頃は僕は真誠さんのファンのひとりだった。小説を楽しみに待つ立場。なのに今はどう? 一緒に暮らして正月を迎えるなんて不思議すぎる。去年なんて遠い昔のことみたいだ。 「そろそろ沸騰するよ」 「うん、豆入れて。そしたら蓋して火を止めて」 真誠さんは立ち上がって豆の下ごしらえを終えると戻ってきて僕の膝に跨り 「オレハ、ナギササンカラ、ハナレナイ」 と言うと首に手をまきつけてなぜかおでこにキスをした。 「凪桜さん悲しそうな顔してる。悲しくなるのは仕方ないけど、そのあとは忘れて俺と楽しもうよ」 真誠さんは自分が僕を悲しくさせたのにそんなことを言うのか。でも、終わったことだから笑って言うんだよね。そう言えば僕もそんな話した気がする。あの時真誠さんは悲しくなったのかな、ごめんお互い様だった。真誠さんの口から初めてそういうの聞いたからちょっと動揺したのかもしれない。真誠さんは人気者だったの、忘れてた。 「名駅で真誠さんが新幹線に乗るのを見送った後で本屋さんに行ったんだ、そこで真誠さんの本が平積みになってて。立ち止まって手書きのポップ見てたら横から手が出てきて開くこともせずに本を掴んでレジに行った人がいて。真誠さん、人気作家なんだなぁって思ったんだ」 「なに? なんで今そんなこと思い出したの?」 「んー勝手に僕だけのものって思ってたから……かな。軽くヤキモチみたいなもん」 真誠さんは何も言わずに僕の頭を抱いた。

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