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今年も猫年(26)(side 真誠)
粉わさびを練るのは居酒屋のアルバイト以来だ。俺はホールでレジ打ちを中心にやっていたのだが、なぜか粉わさびを練るのは俺の仕事とされていた。
トレンディドラマ全盛期のヤマグチ/トモコ(検索避け)みたいな、黒髪長髪美人かつ態度がボーイッシュなお姉さんが調理場を仕切っていて、タイムカードを押すと同時に声が飛んでくる。
「小日向! わさび作れ!」
小日向は俺の苗字なので、黒いサロンエプロンを腰に巻きつけながら返事をして、できあがった料理を受け渡しするカウンターで、粉わさびと書かれたジップロックの蓋を開け、黄緑色の粉末をスプーンで掬ってご飯茶碗に入れて、たらたらと水を入れて様子を見ながら箸で掻き混ぜる。
足りなければ満席のときでも呼び出されて追加を作らされるし、作り過ぎれば「誰がこんなに食うんだよ。お前か?! 小日向か? 小日向が食うのか?」と、まかない食とは別に、いろんな種類の刺身の切れ端と一緒に持ち帰らされた。
気に入られて刺身をもらえて、まかないも美味かったし時給も悪くなかったから、もう少し休みを多くもらえるなら続けたかった。売れないホストと噂される俺の淡いモテ話だ。
「しみじみぃ~のめばっ、しみじみぃっとぉお~おおお~」
その店ではご飯茶碗にわさびが完成したら、業務用の切れの悪い薄っぺらいラップフィルムで蓋をして置いたけど、凪桜さんの流儀ではお猪口に作って伏せる。伏せたお猪口の底に招き猫の絵が描いてあって、今年はいい猫年だったなぁと思う。
「おもいでっだけが、ゆきすぎぃるぅぅぅ」
うやうやしく出迎えて凪桜先生に焼いて頂いたほんのり甘い玉子焼きと、茹でて水で締めた蕎麦、蕎麦用とチャビ様用にそれぞれ刻んだ焼き海苔、練り上げたわさび、そしてぬるめがいいと歌いながら熱めにお燗した徳利。全てを居間のこたつに運んで並べて、俺たちは互いの猪口に徳利を傾けた。
「「かんぱーい」」
やあやあ、どうもどうもと会釈しつつ酒を口に含み、アルコールとともにふわりと鼻へ抜ける芳香を楽しみ、冷たい蕎麦を甘辛いつゆにつけて啜る。
江戸っ子は蕎麦をつゆにドボンとやらず、先の方だけつけてよく噛まずに喉で食べる、と言ってどこの店でもそうする人も見たことがあるけど、かえしが醤油そのものみたいに濃くて辛い店で必然的にそうなるだけで、俺は今際の際で後悔したくないから、好きなだけつゆにつけるし、薬味も使うし、余った薬味をツマミに酒も飲む。
「有名店で流儀や嗜みに緊張しながら食べるより、気の置けない人とわがままに食べるほうがずっと楽しくて幸せ。来年も一緒にこうやって食べられますように」
俺は口を酒で洗い流し、凪桜さんの頬にチュッとした。あー幸せ。
凪桜さんは横目で俺をチラッと見ただけで、催促にやってきたチャビ様に焼き海苔をあげ始め、俺はますます甘ったれて凪桜さんにタックルするように抱き着いて追い払われそうなのを
「やーん、凪桜さん愛してるー」
とふざけていたら、玄関の戸が叩かれた。
「凪桜ちゃーん、大根持ってくるの忘れたわぁ!」
現代のかさこじぞうは静かに置いて帰らない。
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